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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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ツツジに誘われ①

 その日はいつもと違っていた。

 朝方、河津の欠勤が告げられると、応援もないまま白鳥は普段通りの仕事に追いやられた。いくつかの事件が立てこみ、余計な人員を割く余裕はないと判断されたのだ。

 番所の中には慌ただしい空気が流れていた。回遊魚のように同心達が行き来している。

 一人だけ蚊帳の外となった白鳥は、その様子を茫然と見つめるしかない。

 平野は捜査を円滑化するため、控室にこもって情報を集約している。白鳥は本当に一人で仕事をこなさなければならなかった。

「何だか、馬鹿馬鹿しい」

 というのが白鳥の抱いた率直な感想であった。皆が皆、何かに精を出しているというのに、自分だけが取り残されてやるせない気分であったのだ。

 警邏には出たものの、さしてやる気があるわけでもなく、普段の道順から外れることにした。彼は混雑する豆河通りを北に上って、西のほうに折れた。それに従って景色は流れ、店々は減り、長屋が肩を並べるようにして建っている。他にも河原があり、豆河は今日も穏やかに流れていた。

 しばらくすると寺などが並ぶ地帯が広がる。

 その辺りには人の気配がほとんどない。そこここから線香の匂いが漂い、何だか間延びした念仏の声も流れてくる。昔は、この神秘的な空気がどうしても好きになれなかった。辺りに留まる非日常的な静寂が、どうしても死を連想させたからだ。

 だが、今はあまり嫌いではない。大人になって心に余裕が出来たからか、余計な知識を身につけたからか、はたまた別の理由か。ともかく坊主達の無駄に良い声が腹の底に沈み、それが精神的な安定をもたらした。

 歩きながら、白鳥はほっと一つ息を吐いた。寺の敷地を分ける大きな板塀に触れながら、番所の情景を思い出す。見たこともないほどの混乱ぶりだった。それこそ、平野でさえも統率出来ないほど。

「あっちの仕事をさせられる方がきついだろうなあ……」

 よくよく考えてみたら何とも馬鹿らしい。平野に相手にされなかったからといって、それに対してふてくされるなんて。

 実際は一人前と同じ扱いを受けたに過ぎないではないか。平野から、一人でも仕事が出来るだろう、と任されたわけである。

 そう考えると力が湧いてきた。白鳥は自分の額を叩き、考えを改めることにした。寺の並ぶ通りを歩きながら、ぼんやりと空を見上げた。

「そうだよなあ、一人で仕事が出来ることを喜ばなきゃなあ」

 警邏に戻ろうと足を止めたところで、はたと気付くことがあった。

 念仏の声が止み、ひっそりと静まり返っている。頭上を覆っていた快晴の空が真っ白いもやで隠れていた。まるで朝方の山にはびこるような、分厚いものである。一寸先すら見えない。

 上質な絹のような柔らかさである。視界が白く霞んでいて、ともすれば自分が来た道さえ忘れてしまいそうだった。

 彼は触れていた寺の塀の感触を頼りに、元来た道を戻ることにした。

 段々ともやが濃い霧のようになる。日差しを浴びて白く、けぶるものを掻き分け、周囲を見渡す。先ほどよりも視界が悪くなったようだ。それでも足は止めなかった。

「……あれ?」

 ここまでの道のりを考える限り、もう豆河に直面してもいいはずなのに、いつまで経っても辿りつかない。もやは濃くなり、触れている塀でさえ目視できなかった。

 何故だろう? 首をかしげていると、白鳥がちょうど向いている方角から砂利を踏みしめる足音がした。誰かが近付いてくる。

 その人に聞いてみよう。白鳥は足を止め、現れるのを待った。

 やがて、もやの中から、しゃなりしゃなりと人の姿が現れる。美しい女性だ。ざっと見た限り二十歳前後というところだろう。青ざめた瓜実顔である。

 白鳥が声を掛けると、その女性は柔らかに微笑んだ。その表情を見た途端に彼の心臓は高鳴り、喉を鳴らした。

「今日は凄いもやですね」

「ええ、今日は特別な日ですもの」

「何かあるんですか? お寺さんが線香を大盤振る舞いするような事情が」

 女性は艶然とした表情を浮かべ、白鳥の手を取った。

「もちろんですわ」

 それを振りほどく気にならなかったのは、彼女の手が冷たかったからか、鼻孔をつく異香に心を奪われたからか、はたまた別の理由か。判然とはしなかった。

 女は手を握りしめたまま、白鳥を導くようにして歩きだした。

「あの」

 手を引かれた白鳥は、豆河とは逆の方向へと引っ張られていった。手を振りほどこうとしたが、どうしても出来なかった。特別怪力というわけでもないのに。

 やがて女が足を止めた時、白鳥は眼前に広がる光景に目を奪われた。

 ツツジの木が隙間なく立ち並び、赤紫や白色の花を咲かせている。まさしく色彩の濁流が寄せてくるようである。白いもやの中に鮮やかな色が輝いていた。

 その光景に圧倒され、周囲を見渡した。

 どこかの寺の一角らしい。頭の中を引っかき回したが、判然とはしない。もう少し情報が必要である。辺りは完全にもやに包まれ、その白い海の中に鮮やかな色彩が滲んでいるばかりだ。

「……どうです?」

 女が上目遣いで尋ねた。白鳥は喉を鳴らして頷き、素晴らしいです、と答えた。

「良かった。これを貴方様にお見せしたかったのですわ」

「僕にですか?」

「ええ、あなたに」

 女はにっこりと笑った。

 彼女は再び白鳥の手を取って歩き出した。寺から出て豆河の方へと戻っていくのがはっきりと分かる。徐々に、もやが晴れていく。隙間から白光が筋となって漏れだしていた。それによって辺りの景色も鮮明になる。白鳥の感覚は狂っていないようだった。

 目の前に豆河が見えた時、女は手を離し、振り返ることなく近くの角に姿を消した。

 この不思議な体験に白鳥は首をかしげ、女の姿が見えなくなるまでその場に立ちつくした。角を曲がる直前、女が深々と頭を下げてきた。白鳥もそれに返した。

 ふわふわとした気持ちで豆河を辿り、警邏に戻る。もやは消え、人々が奏でる喧騒が戻ってきた。

 翌日も白鳥は一人だった。復帰した河津も忙しそうだ。

 それが故に自然と足が豆河の北に向く。視線は女を探していた。寺の近くまで来ると、またしても、もやが体を包みこんだ。彼の視界はあっという間に白一色になり、昨日と同じように女が白く煙るものを掻き分けながら近づいてきた。

「今日もいらしたんですね」

「まあ、何度見ても足りないですからね」

 そう言いつつ、今日は掴めそうなほど濃いな、と白鳥は思った。それを見透かしてか、女がくつくつと笑った。

「天気が悪うございますね」

 その翌日も、また翌日も白鳥は女に会いにいった。

 平野達が担当する事件は、手間の割にそれほど難解な事件ではないようだった。ストレスだけを溜める上司と同僚を見て、白鳥の頬は自然と緩んだ。

「何だよ、気持ちわりいな」

 頭を抱えながら書類作業をする河津が怪訝な顔を向ける。白鳥は鼻を鳴らして、あくせく働く同僚に言った。

「何でもありませんよ、何でもね」

 まさか警邏の途中に絶世の美女と面会しているなどと、口が裂けても言えない。少なくとも平野の前では。

 白鳥は上機嫌に警邏へと向かう。その足取りの軽さに、平野と河津は顔を見合わせた。

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