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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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不幸な男④

 日もとっぷりと暮れた。

 鳥の群れが住処に帰って久しく、番所の周囲には夜らしい静寂が広がっていた。

 自分の住処を追い出され、不満げに眼光を光らせる平野を、河津が宥めている。

 白鳥はさなの傍らについていた。今は薬を飲んで大人しく寝ているが、それまでは手が付けられないほど暴れようとしたのだから。

「ここは番所ですよ。大丈夫、鬼より怖い上司がいますからね。誰であっても通しはしません」

 白鳥がそう宣言するに至って――同時に平野の眉間に深いしわが刻まれた――さなは胸をなでおろして、寝息を立てはじめた。その直前に、ぼそりと恐ろしいことを呟いて。

「私、伝介さんに殺されてしまうのかもしれません」

 さなの寝顔は、それほど衰弱しているように見える。なにしろ骨がくっきりと浮かぶ彼女の体は、白鳥屋の蔵で運んだ荷物よりも軽い。白鳥程度の膂力であっても、さなならば二人いても問題なく抱えられただろう。河津ならば五人はいける。ともかくそれほど軽く、これが死に瀕した人間なのか、と白鳥は驚かされた。

「何だってんだよなあ……」

 ゆっくりと寝息を立てるさなを見下ろし、白鳥は頭を抱えた。先ほどはああ言ったが、確かに彼も河津と同じような意見だった。あの田室が、新しい嫁を娶れるように、後腐れないように配慮しているのかと思っていた。

 だが、現実はどうだ? さなは殺されるかもと恐怖に怯えている。あの田室が毒を盛るだとか、飯を与えないだとか、そういう悪逆なことをするとも思えないから、さなの勘違いなのだろう。しかし、白鳥には気になることでもあった。

 そうした白鳥の懸念を見て、冷厳な平野は僅かな憐憫を垂らしたくなったのだろう。音を立てずにさなが眠っている番所の控室に入ってきた。白鳥が顔を上げると、行燈の光に照らされた平野の顔は、より一層冷たく見える。たぶん真夜中に見たら腰を抜かすだろう、などと不謹慎なことを考えながら、引きつった笑みを浮かべた。

「何か?」

 そう尋ねると、平野は無言のまま顎をしゃくった。外に出ろという合図だ。白鳥は握っていた、さなの骨ばった手を布団の中に戻してやり、音を立てないように控室を忍び出た。

 廊下には平野と、それから河津がいる。二人とも真剣そうな顔をしていたから、白鳥も薄情な笑みを引っ込めて、二人を交互に見やった。

「何です?」

「……白鳥、あの女の家に行って来い」

 平野が半眼を向けてくる。それが言いようのない殺気を孕んでいて、白鳥の腹の底が、すっと冷えるような感覚があった。

「い、行って、どうするんです?」

「一応夜番の連中が報告をしたが、あの女の夫に事態の詳細を告げねばならないだろう? それとも、私と河津に行って欲しいか?」

 それは比類ないほどの冷笑であった。平野は口角を僅かに上げ、冷やかに笑った。その三日月のように引き伸ばされた薄い唇を見て、白鳥は馬鹿みたいに頷いた。

「分かりました。さなさんは一旦預かっておく、と言っておきます」

 というわけで、白鳥と河津が、田室のところへと向かうことになった。


 昼間と同じく、白鳥屋の裏手に回ってくる。

 当然のこと月明かりだけでは薄暗いから、白鳥が提灯を携えていた。河津は剣呑な雰囲気で、やはり臨戦態勢である。

 どうやらこの男、情が深い性質らしく、悲しげに瞳を濡らすさなに、もう憐憫を垂らしている。そして、妻にそんな表情をさせる田室に対して義憤を抱いていた。

 田室の家の裏手に到着すると、白鳥が勢いよく戸を叩いた。

 その音が夜の静謐の中に広がるが、あまり気にはならない。すでに同心が田室に事態を伝えているからか、周囲は予想していたよりもずっと、ひっそりと静まり返っていた。

 返事がないから、二度、三度と叩いてみるが、結果は同じだ。

「おかしいですね……」

 白鳥が首をかしげると、それまで黙然としていた河津が、さっと視線を上げた。なお藻戸を叩こうとする白鳥を押しとどめた彼は、敷地の内部に聞き耳を立て、それから勢いよく裏の戸を蹴り壊した。

「ちょっと!」

 と叫ぶ白鳥を無視して、河津は大股で田室の家に飛び込んだ。それでは後を追わないわけにもいかず、せめても、と蹴り壊された裏の戸を立て懸けてから、白鳥もあとに続いた。

 勝手口から中に入る。そこから続く台所は、やはり過不足なく手入れされていた。白鳥はそうした状況をさっと仰ぎ見、河津の姿がないことに不満を覚えた。

 このまま入っても良いだろうか、と考えていると、表――店の方――から大きな物音がし、下駄を脱ぐ間もなくそちらに駆けこんだ。

 そこでは、河津とあの悪相の男がもつれ合うようにして格闘していた。

その傍らでは田室が茫然とした顔で突っ立っていて、白鳥は慌てて駆け寄った。

「大丈夫ですか?」

 そう声をかけると、田室が、はっと意識を現実に引き戻した。それから怖々と白鳥を見て、蒼白の顔を下に向ける。同じように白鳥も視線を下向けて、ぎょっと目をひんむいた。

「刺されているじゃないですか!」

 白鳥は素っ頓狂な声を上げて、ともかく田室を腰かけさせた。彼は小刻みに震えながら、どこかの虚空をじっと見つめている。彼の下半身は腹から流れた血で濡れていて、それが乾く暇もなく、傷口からさらに溢れてくる。

「許して、……許してくれ」

 田室は馬鹿みたいにそんなことをぶつぶつと言っていた。白鳥は、己の服の袖を引きちぎり、急いで傷口に押し当てる。その頃には河津が男を取り押さえていて、持っていた捕縛用の縄で手足を縛りつけたあとだった。

「おい、医者を呼んでくる」

 さらに、暴れる悪相の男を壁際に括りつけて、河津は駆けだした。締め切っていた戸口を体当たりで破壊すると、表の通りへ転がり出た。

「田室さん! 田室さん!」

 その一方で、徐々に意識が遠ざかる田室に、白鳥は必死に声をかけた。いくら抑えても血が止まらず、彼の手は真っ赤に染まっていた。

「いい気味だ!」

 緊迫した様子を見ていた悪漢が、突然声を張り上げた。その態度に白鳥が険しい顔を向けると、壁際に縛り上げられたこの男は不気味に口を歪ませた。

「いい気味だ! 俺のさなを奪ったんだからな」

 その言葉に、田室が身を痙攣させた。今や口や鼻からも血が噴き出していて、もはや助からないだろうということは分かる。光を失った目が、ただ縋るような色を帯びていたものだから、白鳥は田室に顔を寄せた。

「田室さん、何か言いたいことがあるんですか?」

 そう尋ねると、喚く男の声に紛れて、田室がゆっくりと口を開いた。

「許、してくれ、私、は、さなに、付き、まとって、いた」

「どういうことです? 田室さん! ねえ、ちょっと」

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