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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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とある死刑囚⑤

 こうして三人は市中へと取って返した。

 夜が更け、やがて東の空が白み始めた頃合いに、やっと目的地に転がり込んだ。平野でさえ息を切らし、しばらく顔を上げられなかった。白鳥は倒れ込んで起き上がることさえ叶わない。娘も膝に手を突き、地面に出来た水玉模様を茫然と見つめていた。

 そこは町奉行所の牢獄だった。入口のところで大欠伸をしていた兵士が、疲れ切った平野の形相に口を閉ざし、しゃっくりをした。

 牢獄の入り口付近の一室では処刑人達が武具の点検をしている。身を清めている者もあった。その物々しい雰囲気に娘はたじろいだが、恐怖を感じさせる前に平野が腕を引いた。

 多介の処刑は朝のうちに済まされるようだった。

 どうやら間に合った、と疲労困憊の白鳥は安堵した。足が震えるほど走って良かったとさえ思った。泥だらけで、汗が服の袖や裾から滴り落ちても、まあ許せる。

 処刑は中庭の片隅で行なわれるらしい。庭に面した廊下を横切り、牢獄の並ぶ場所までやってくる。罪人達が格子を掴んで揺さぶっていた。先を歩いていた平野が一番目の牢獄で立ち止まった。

 日の当たる一角にいた多介は、ちょうど朝食を取っているところだった。彼は慌ただしく入ってきた三人に目をひんむいた。独房らしい。隣の牢は五人も入っている。

 彼は平野を見ると箸を置き、ゆっくりと立ち上がった。

「こいつだ」

 と平野が恬淡な様子で言う。娘が尼削ぎの髪の毛を微かに揺らして前に出た。多介は木製の格子を掴み、娘の顔をじっくりと見つめた。

「美人になったなあ」

 彼はしみじみと呟いた。格子越しに娘の頭を撫でると、愛おしげに笑った。白鳥が一見した限りではあるが、蒼白の頬は痩せこけ、やや不健康そうだ。

 多介と娘を見ながら、平野がそっと顔を寄せてくる。

「奴は日頃から壁から漏れ聞こえる、喜太郎家の話に耳を傾けていたらしい」

「……話を聞いているうちに、家族の一員になった気がした?」

「分からん」

 平野は首を振った。また二人の方に視線を戻した。

 娘は涙をこぼしながら、母が亡くなったこと、自分が尼になろうと思っていることを告げていた。多介は顔を強張らせたが、娘の頬を撫で、そっと肩を抱き寄せた。

「いつかでいいから、花嫁姿も見てみたいけどね」

「でも――」

「私はね、君が生まれた時からずっと声を聞き続けてきたんだ。夜泣きの酷い時も、言葉を話し始めた時も、近所の子供に泣かされた時も。ずっと隣の部屋で、君の声を聞いてきたんだ。つまりは憶病だったんだな。君達の前に出る勇気が無かった」

 多介は苦々しげに笑う。涙で濡れる娘の頬を撫で、自分のまなじりからも一筋こぼした。

「あの日、尋常でない騒ぎが聞こえてきた時、私は急いで君の家に入った。思えば、あれが初めてだったんだねえ。声は嘘をつかない。君も、君のお母さんも、美人だったけれど疲れ切っていた」

「あの時は父が暴力を振るっていたのです」

「分かっているとも。全部ね。ちょうどいいと思った。長い時間一人で過ごして、君と、君のお母さんの声に独り言を返すのに疲れたんだ。君のお父さんに心の中で呪詛を送るのにもね。……退屈しなかったお礼に、少しくらいは返したいと思った」

 娘は顔を歪めた。多介は超然とその様子を見つめていた。娘が頬の赤くする様子さえも、愛おしげに見ている。

 不意に、中庭の方から金属が重なり合う物々しい音が響いた。四人は揃って視線を向けた。

 どうやら時間が来たらしい。緊張した面持ちの処刑人が、多介の前にやってきた。

 彼は最後の白米と新香を口に頬張り、味噌汁で流し込んだ。食後に四つ切りにされた柚子の果実をかじり、冷めた白湯で喉を潤した。

 処刑人が独房の扉を開けた。娘が処刑人の腰に縋りついた。平野が慌てて彼女の肩を掴んで引きはがし、白鳥は多介と娘の間に立ちふさがった。

 その様子に多介は微笑み、気恥しそうに腹をさすった。娘は手を伸ばし、頬をしとどに濡らしていた。

 その手を取った多介は、処刑人に一言断って娘に近付き、抱きしめた。髪の毛を優しく梳いた。

「君が気にする必要はないんだよ。私にもう少し勇気があれば、あの凶行を止められたかもしれないんだ」

 娘は泣きそうな顔でかぶりを振った。ごめんなさい、と何度も繰り返した。

「いいんだ。私は君に幸せになってもらいたい。何とも奇妙な話だろうけど、君の父親のような気分でいたんだから」

「それは……違うんです。そんな殊勝なことは思っていませんでした」

「……どうあろうと、忘れられていないだけで僕は幸せ者だ」

 こうして多介は処刑人に促され、娘から離れた。

 厳めしい顔をした処刑人達に囲まれ、中庭へと向かった。そこは地面に砂利が敷かれ、大振りの松が一本植えられているだけである。人が死ぬ場所にしては殺風景だ。

 娘は急いで追いかけた。止めようとした白鳥を平野が制する。

 敷かれた莚の上に座った多介は、処刑人に今日の日差しは心地よいだとか、飯が旨かった、なんてことを穏やかに言っていた。刑が執行される直前まで。

 町人としては異例の斬首刑だった。

 腕のいい処刑人は慣れた動作で儀式的な行為を済ませ、用意はいいか、と尋ねた。正座をした多介は、下を向いたまま娘の名を呼んだ。

 中庭に降りた娘がその背中に返事をすると、やはり体勢は変えないままに言った。

「私は――」

 声が掠れて甲高くなっていた。肩が震えている。多介は鼻水を啜り、咳払いをした。

「――このままだと無縁仏になってしまう。君の心が許すならでいいんだが、やっぱり年に一度くらいは墓参りに来てもらいたいものだよ」

「……はい。必ず行きます」

 娘は丸まった多介の背中を見ていた。

「それから、やっぱり私は、君には幸せを選んで欲しいと思っているんだ。時代遅れだと言われるかもしれないけれど、誰かと縁に恵まれて、子を育んで欲しいなあ。君には、私のように一人ぼっちで過ごして欲しくは無いよ」

「でも――」

「君には幸せの権利がある。人生には帳尻があるんだ。今は苦しくとも、前へと進みなさい。……なんて、少しお節介だったね」

 娘の方を見ないまま、多介が乾いた笑い声を上げた。

 彼は、娘が何か言おうとするのを手で制して、処刑人に向かって頷いた。

 あとのことは簡単だ。見事な一太刀で多介の首が落とされた。砂利が鮮血で濡れる。悲鳴を上げる暇もなく、ごろりと落ちる物があり、多介の体がゆっくりと傾いだ。

 罪人であるために亡骸はすぐに荼毘に付される。近所の寺から小僧が五人ばかりやって来て、力なく崩れ落ちた多介の体を大きな桶に入れた。

 その様子を見ながら、白鳥は娘に尋ねた。

「何と言おうとしたんです?」

 娘は目を瞑り、縁切り寺に送ってください、と告げた。処刑人は請け負ってくれ、寺からも多くの坊主が応援によこされた。それを見届け、娘は真っ赤な目を白鳥に向けた。

「分かりました、と」

「……はあ」

「私の命は多介さんに救われたのです。今までは母の言うまま、そして自らが思うまま、楽な方へ、つまりは人と交わらぬ場所へ行きたいと流れてきました」

 娘はそこで言葉を切り、ぐったりとした多介の体を目に焼き付けるように見ていた。

「私は、あの人が打算的な行動を取ったと思っていました。私と母を見る目には、少し劣情的な雰囲気があった気がしたんです」

 娘は顔を上げた。日差しに眩しげな表情を浮かべ、澄んだ朝の空気を肺に送り込んだ。

「でも、彼は私達のことを一番に考えていた。この二年間、彼がいつ裏切るかと心の底で恐れていたのが間違いだったんです。あんな人なら怯えることは無かった」

「……これから、どうします?」

「出直します。とりあえず髪が伸びるまでは寺で修行をします。終わったら、またどこかで働き口を探してみます。あの化粧台だって買い戻さないとなりませんから」

 娘の笑みは決然としていた。

 白鳥は歩いていた役人に紙と筆を借りて推薦状を書き、白鳥屋の次男坊として花押の印を描いた。それを娘に渡す。それさえあれば、どこの店でも門前払いは食らわないだろう。

 まあ、こんな気立てのいい娘を見て、門前で払おうなどという痴れ者はおそらくいないだろうが。

 白鳥は天を仰いだ。澄んだ青空が広がっていた。迷うことなく多介の魂魄が天へと上がり、喜太郎の妻と出会えていたら、と思った。

 もし、そこでやり直せるのなら、僅か壁一枚の憶病さも取り払えるかもしれない。

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