とある死刑囚①
昼下がりのことだった。
その日、河津は用があると仕事を休んだ。そのため、白鳥は平野と二人で日課の警邏を終わらせた。番所に戻って一息ついた時には、まだまだ旺盛な日差しが大地に降り注いでいた。
さっそく定位置に座って日報を書き始めた白鳥は、番所の奥にある控室が開く音を聞き、顔を上げた。
そこには帰り支度を済ませた平野の姿がある。彼女は、ゆっくりと白鳥の前を横切ると、土間のところで下駄を履きながら言った。
「悪いが、今日は先に上がる」
「日報はどうしましょう?」
(悪いとは思っていないくせに)
という考えが白鳥の中にあるのは事実だ。平野はそっけなく視線を逸らした。
「お前の仕事ならば過不足ない。そのまま夜番の連中に渡せ」
平野の口から職務放棄の言葉が聞けるとは!
目をひんむいた。だが、平野はそれきり振り返ることもなく、足早に去っていった。
白鳥が異変に気が付いたのは翌日のことだった。
「おい」
今日も今日とて、いつ警邏に行こうか、と河津と話し合っているところに平野が会話に入ってきたのだ。彼女は二人に目をすがめていた。
「何です?」
河津が愛想の良い笑みを浮かべた。平野は僅かに顔を歪めたものの、すぐにいつものように冷厳な顔つきに戻った。
「警邏には行かないのか?」
「ええ、もうちょっとしたら」
「今日はにわか雨が降るかもしれない。今すぐ行ってきたらどうだ?」
「あ、もしかして、お嬢も一緒に行きます?」
「遠慮しておく。出歩くには暑すぎる」
苦々しげな顔をして言うものだから、何か隠していることは明らかだった。
だが、確かに警邏に行ったっておかしくは無い時間帯だ。白鳥は河津を引きずり、番所の外に出た。ぶつくさと文句を言っている河津を先に行かせ、そっと番所の中を窺った。
土間に一人きりとなった平野は、何故だか過去の捜査資料を整理した棚の前にいた。決然とした動作で、とある引き出しを開け、その中から資料を取った。
「右から四番目、下から三つ目の引き出しの……十八番目の資料だな」
白鳥はそれを確認してから、急いで河津を追いかけた。その日の警邏はほどほどで終わらせておく。番所に帰ってくると、何故か平野が帰り支度をしていた。
「……日報は、どうしましょう」
「何か特別なことは?」
「特には。最近、泥棒の被害が多いとか、何とか」
「夜番の連中に渡しておけ」
彼女は颯爽と番所から出て行った。
その背中を見つめて、河津は顔をしかめた。まさか平野が仕事を放棄するとは思わなかったのだろう。その驚きを昨日のうちに済ませた白鳥は、嘆息しながら、捜査資料が入っている棚に近づいた。
平野が漁っていた引き出しを開ける。数を数えながら、十八番目の資料を取った。
実に薄っぺらい捜査資料だ。たった三頁しかない。表書きは殺人事件とされている。犯人は多介という男であるらしい。被害者は喜太郎とのことだ。
事件は二年前のことである。とある長屋の一画で殺人が起きた。
昼下がり、その部屋の主である喜太郎が酒をかっ食らって寝ているところに、隣家に住む多介が突然襲い掛かり、刺した。通報者は喜太郎の妻と娘である。同心達がやってきた時、多介は喜太郎の亡骸に包丁を突き立てていたのだという。
「……なんだ? その事件」
事情をよく知らない河津は、首をかしげながら資料を覗きこんできた。
「ああ、めった刺しの奴か……」
「知っているんですか?」
「まあ、お嬢と俺が担当した事件だからな。現場が酷くてなあ。荒れ放題で血まみれ。相当泥沼の戦いを演じたんだろうな」
「なるほど」
「多介がなあ、壁越しに聞える喜太郎の声が耳ざわりだったって……」
そりゃまた自分勝手な理由だ。それで殺される喜太郎も気の毒な方だろう。目撃した妻子はそれこそ一生分の苦しみを味わったに違いない。
「ま、多介も突発的にやったんだろうな。凶器は喜太郎の家の包丁だった。あの医者が死体を見て顔をしかめたんだよ。包丁の切っ先がへし折れるまで刺し続けたってんだから、よっぽど恨みも募っていたんだろうさ」
確かに、現場は血の海であった、と書かれている。他にも、調度品の類はほとんど蹴倒され、壁や天井にも飛沫血痕が散っていた、とも記されている。白鳥は熟練の同心というわけでもないが、こうした書かれ方をすることは稀だということは言えた。
「ちなみに、この事件、最近何か進展でもあったんですかね?」
「ああ? ……何かあったのかな。もしかして、お嬢が帰ったのもこれ関連か?」
「それを僕が聞いているんですよ」
「俺に聞かれたって分かんねえよ」
「本当に役立たずな人ですね」
「いい度胸じゃねえか。ぶん殴ってやろうか?」
「平野さんに言いつけて、減給処分を食らわせますよ?」
二人は激しくいがみ合った。
ちなみに、ことの真相を聞くことになったのは、そのまた翌日のことだった。憔悴しきった面持ちの平野が二人の前でこうべを垂れたのだ。
天変地異の前触れか、と白鳥と河津は体を抱きあい、平野はその光景に眉一つ動かさずに言った。
「悪いが、少し手を貸してほしい」
「……悪いとも、少しだけとも思っていないくせに」
平野は、じろりと白鳥を見やった。
「……では、当然の義務として私を手伝え。死ぬまで、身を粉にして」
「お前、少しは口を閉じろよ」
河津にこつん、と額を小突かれた。