稀代の発明③
白鳥は番所に戻った。土間のところでは暇を持て余した老婆の話を、平野が延々と聞かされているところだった。
引き戸を開けた瞬間、彼女の鋭い眼光を浴びせられて、白鳥は顔を引きつらせた。
剣呑な様子に老婆もそそくさといなくなる。その背中を見送り、平野の手を取って番所の外へ出た。
「ちょっと付き合ってください」
「……どこへ行く?」
「田野屋です」
平野が口を引き結んだ。田野屋と言えば、同心を含めた役人達は身構える。
また何かやったのか、という思考が先立つからだ。平野も同様だった。歯をむき出しにし、血に飢えた獅子のようになった。
豆河から通りを一本外れたところにある、田野屋という巨大な看板が見えてきた時、それまでついてくるだけだった平野が前に出た。その背中は、もちろん自分よりも小さいのであるが、何故だか頼りがいがある。
平野は何の躊躇いもなく店の中に入った。その瞬間、店内がどよめく。振り絞ったような悲鳴も聞こえてきて、白鳥も慌てて中に入った。
瞬刻、飛び込んできた光景は、まさに地獄絵図だ。見るからに荒くれ者だと分かる男の胸ぐらを、平野が掴み上げている。
「ええ……?」
唖然としながら、何とか上司をいさめた。荒くれ者は乱れた着物を整え、突然現れた同心二人に怪訝な顔を向けた。
「……何か用かい?」
実にどすの利いた、低い声だ。小心者なら、それだけで震えあがるだろう。平野は挑発的に笑い、刀の柄に手を掛けていた。男は血の気を失った顔をして、活路を白鳥に求めた。
「ええ、阿呆斎という男をご存知ですか?」
「阿呆斎? ああ、昔、うちで金を借りていた奴ね」
どうやら、この荒くれ者が田野屋の店主であるらしい。鼻息荒くする平野を抑え、白鳥は毅然とした面持ちになった。
「昔、というのは語弊がありますよね?」
「は?」
「今も取りたてようとしている。阿呆斎を追いかけさせているのは周知の事実ですよ」
男は鼻白んだ様子で、白鳥を上から下まで眺めやった。そして相手の素性に気が付き、突然卑屈な顔をした。
「し、白鳥屋の坊ちゃん……」
「……僕ね、相手によって態度を変える奴が一番嫌いなんですよ。ああ、そうそう。帳簿の書き換えは犯罪ですからね。本物の帳簿を出してください」
「いや、役所には毎年、きちんと――」
「嘘はよした方がいいですよ。案外、敵は多いですからね。思わぬところから恨みを買っているものです」
懐から資料を取り出した。勝手方の、元同僚から貰ったものだ。白鳥は冷然とした表情で田野屋の店主を睨み下ろし、もう一度同じ言葉を繰り返した。
店主は苦々しい顔をした。勝手方の役人の執念は恐ろしい。市中各地にいる田野屋の顧客から聞き取り調査を行ない、そこから正確な収益を見積もっている。ここ十年で払った税金は、本来課されるべき金額の五分の二程度だろう。
「まあ、いずれは沙汰が出ますから。あなたが金を借りる立場にならなけりゃあ、いいですね」
「……」
「返事は?」
「へ?」
「返事。あんたの阿呆面なんか、見たって面白くとも何ともないんですから。あまりあくどい商売はしないことですよ」
誰が見ても分かるほど嗜虐的な笑みを浮かべ、白鳥は鼻を鳴らしてその場を去った。
番所に戻ろうと踵を返したところで、顔馴染みの目明しが二人の下にやってきた。
どうやら河津が阿呆斎に追いついたらしい。そして彼は、路地の裏で血を吐いてうずくまっていたのだという。
「それで、今は診療所に」
実に忠実な目明しにいくばくかの金を与え、二人は馴染みの診療所に急いだ。
入口のところでは不機嫌そうな顔をした医師がいる。彼の話では肺を侵されていて、余命はほとんどないのだそうだ。
「咳が止む時は、死んだ時だろうよ」
医師はそう呟き、紫煙をくゆらせた。肺を患った患者の隣で、吸う気にはならなかったみたいだ。
中に入ると、青ざめた顔の河津が寝台に横たわる阿呆斎の顔を覗きこんでいた。
病に倒れた阿呆斎の姿は骨と皮ばかりが目立ち、痛々しい。呼吸もままならないのか、時折苦しげに胸を抑えて、乾いた呼吸音を上げていた。
白鳥が傍らに寄ると、阿呆斎がゆっくりと目を見開いた。
「田野屋の件、話はつけておきました」
「……ああ、そうですか。自由を謳歌出来ないのが、残念だなあ」
「馬鹿なことを言わず、治療をしましょう」
阿呆斎は軽く首を振った。
「私にはね、自分の体の状態が分かるんです。息を吸って、吐くのさえも苦しい。ここまで弱っていちゃあ、薬を飲んだだけで死んじまいますよ」
「……でも――」
「自分のことはよく分かっています。当然の報いですよ……ねえ、お武家さん?」
白鳥は阿呆斎の力ない手を取り、にっこりと笑った。
「何でしょう?」
「一つ、お願いがあるんです」
そこで彼から提案されたことは、第二八番隊からすればあまりに荒唐無稽で、前代未聞のことだった。