不幸な男③
「そりゃ、お前。今にも死にそうなんだからよ、素直な気持ちを吐きだせるわけねえだろ」
翌日、見回りの時間に白鳥がこの出来事を話すと、共に道を行く河津が鼻でせせら笑った。彼に言わせれば、白鳥が感情の機微に疎いだけだというのである。
二人はその日も豆河通りを警邏していた。人出が多く、やはりどこかの店で特売が行なわれているのだ。その人いきれをかき分けるようにして進んでいた白鳥は、隣に立つ河津に顔をしかめた。
「それにしたって、もう少し好意の示しようがあるんじゃないですか?」
「……お前なあ、全身全霊で愛してくれるような男だぞ? 自分が死んじまったら、絶対に独身を貫くじゃないか。今際の際までそっけなくしておけば、もしかしたら良い人にころっといくかもしんねえだろ」
分かったような口を利いているが、この河津は独身である。三二歳にして、いまだ女性と婚姻関係を結んだことはなく、必然的に彼の家は男の一人暮らし感で満ちあふれている。女の影などありはしないのだ。
その事実を踏まえた上で、白鳥は肩をすくめた。平野に吐露する訳にもいかないし、他の同心と仲が良いわけでもない。この生涯独身街道を走りそうな、武骨な同僚に愚痴るしかないことに、彼は情けない気持ちにさせられた。
「全く……」
そうぶつくさと文句を言っているうちに、見慣れた場所に足を踏み入れた。そこは白鳥屋が居を構える、豆河通りでも屈指の地帯であった。
特に両替商、万問屋が軒を連ね、ここから北の終点までは、いわゆる豪商が店を構えているのである。白鳥屋はその始点付近にある。豪商の中では格が一つ落ちるが、しかし市中でも随一の店であることには変わりない。
その立派な店構えを遠目に見て、白鳥は顔をしかめた。河津の方も、納得したような顔をして、さっと周囲の雑踏を一瞥する。まあ、大抵の人は万問屋だとか両替商だとかに興味はないから、人の流れが減っていくのである。
「じゃあ、隣の道に行くか」
有無を言わさず河津は豆河通りから離れた。店の裏手が面する私道を越え、さらに隣の通りに出てくる。豆河のせせらぎが遠のいて、白鳥は露骨にほっとした顔をしたが、しかしすぐに顔を引きつらせた。気を利かせたつもりの河津が、ムッとした顔をした。
「何だよ、ここにも白鳥屋が出てんのか?」
「いや、そうじゃなくてですね。件の田室さんの店がこの通りなんですよ」
と弱音を吐く白鳥を見下ろして、河津は溜息をついた。彼らの任務は繁華街を見回ることであるから、これ以上離れても仕方がない。
河津はじっと白鳥を睨み、どっちの道に行きたいのか、と無言のうちに問いかけた。この商家出身の若い新入りは、散々逡巡した末に打算的な妥協案を提示した。
「あの裏通りはどうです?」
店々の裏手が面する私道を指差す。河津はそちらの方をちらりと流し見、考えを巡らせた。人がいないような道を見回ることに、何の意味があるというのか。
だから、白鳥は持ち前の口先を軽快に動かした。河津など、彼の口八丁の前には赤子にも等しい。彼を説得するのは文字通り赤子の手をひねるよりも簡単だ。
「ほら、最近変な人を見かけるって言っていましたし」
「ほお、誰が?」
「う……、父上が。見慣れない人が出回っていて物騒だって」
「ほお」
「それに、さっき物陰に人がいるのを見ましたし」
「何だと?」
「何か、地面を這いずり回っている的な?」
視線を彷徨わせながら、必死の嘘八百を並べ立てているうちに、河津の方は本気になってしまったらしい。
これだから簡単な男なのだ、と白鳥はほくそ笑んだ。
結局、二人は商家が敷地を譲り合って作った細い私道に足を踏み入れた。そこは昼間だというのに薄暗く、冷やりとした空気がはびこっている。その感覚が肌を撫でて、白鳥は身を震わせた。
「どこだ、どこで見た?」
もう臨戦態勢に入っている河津は、刀の鯉口を切り、右手を柄に置いていた。血走った視線を周囲に向けている姿を見れば、彼が只者ではないと分かる。
実際その通りで、同心の中でも一、二を争うほど腕が立つらしい。
らしい、というのも、白鳥からしてみれば、大抵の奴は彼より強いから、誰がどれくらい強いのかは全く見当もつかないのだ。
「えーと、その物陰辺り?」
適当に指をさすと、河津は慎重にその先を窺って、やがて弾けるように駆けだした。その熱血漢のような後ろ姿に、白鳥は呆れ顔を作った。女が出来ないのは、この所為なんじゃなかろうか。何にでも一生懸命すぎて、相手が引いているのではないか?
「おい、白鳥!」
「はいはい」
地面にしゃがみ込んだ河津が鋭い声を放った。白鳥は全く気のない様子で、鷹揚に応じた。
「人が倒れている。医者を呼んで来い」
「え? 本当に?」
白鳥がさっと近寄ると、確かに河津の足元で人が倒れていた。そしてその人物が、さなであることが白鳥の動揺をさらに掻きたてるのだ。
思わず足をすくませた白鳥に対して、河津が鬼気迫った様子でもう一度叫んだ。
「医者を呼んで来い!」
白鳥は慌てて私道を駆け出て、馴染みの医者を担いで戻ってきた。
この医者、白鳥が子供の頃から爺さんだったから、いったい何歳なのか、誰にも見当がつかない。天狗と人の相の子だとか、人魚を食ったと言われているくらい長生きなのだ。
そのまま、さなは番所まで運ばれることとなった。
田室に引き渡そうとしたのだが、彼女がかたくなに首を振ったからだ。弱り切った体で逃げようとするものだから、白鳥が何とか取り成して、番所で寝かせることに決まった。