天下一級⑤
その翌日、白鳥は番所の控室で平野に頭を下げた。もはやなりふりは構っていられまい。というより河津が勝てばいいのだ。それで全ての企みは水泡に帰す。
「実はですね、河津さんが件の道場破りと試合をすることになったんです」
仕事を片付けていた平野は、恬淡な様子で白鳥を見下ろしていた。
「ほお?」
「で、一応の応援として僕も行く予定なんですが、平野さんも来てはくれませんか?」
「何故だ?」
「だって河津さんも、やる気になるかもしれませんし」
平野は苦々しい顔をした。ううむ、と唸っているところで、白鳥は膝を一歩分だけにじり寄らせた。
「平野さん、お願いしますよ」
多くの嘘が紛れ込んでいるわけだが、構わず頭を下げた。部下に懇願されて、首を横に触れるほど平野は強情ではない。彼女は苦々しい顔で、ぼそりと呟いた。
「いいだろう」
白鳥は大きく頷き、彼女の気が変わらないうちに控室を飛び出した。
今は朝のことである。河津がまだ出勤して来てはいないが、おそらくは根を詰めて修行しているのだろう、と勝手に思い込んでいた。
その予想が覆されたのは、焦れるような思いをしていた白鳥が、昼飯の仕出し弁当を食べている時だった。
番所の引き戸が開き、見慣れた男が頭を下げながら中に入ってきた。河津家に長らく仕える下男である。
彼は白鳥が何かを言うよりも早く、素直に頭を下げてきた。
「申し訳ございません」
「……何かあったんですか?」
その緊迫した様子に、白鳥の心臓は不自然に早鐘を打った。下男は今にも膝をつかんばかりにもう一度頭を下げ、耳元で恐ろしく重大な言葉を述べた。
「実は、坊ちゃんが腹を下しまして」
「は?」
「あのう、昨晩は験を担ごうと鯛をご用意したんですが、それが、そのう、腐っていたみたいで」
あとの言葉を要約すると、朝方、腹の不調を訴えた河津が厠から出てこないという始末らしい。世界一強い男が何と情けない。白鳥は唸るようにかぶりを振った。
「嘘ですよね? 今晩ですよ?」
「はあ……本当に申し訳なく思っております」
見れば、下男も憔悴しきっているようだった。まあ、良かれと思ってしたことが、こうして悪い影響を及ぼしたのだから仕方があるまい。
だが、困るのは白鳥も同じだ。彼は落ち着きなく当たりを行ったり来たりして、震える手で口元を覆った。心臓の音が嫌に響き、耳の奥で脈動の音が不快な余韻を伴っている。
「どうしましょう……」
白鳥が知らずのうちに呟くと、下男はますます背中を丸めて恐ろしい言葉を呟いた。
「実は、坊ちゃんから伝言を預かってきております」
「……ろくでもないことでしょう? ですよね?」
「ええと、あのう、今日の試合は白鳥様が出るように、と」
「は?」
「その、白鳥様の機転ならば、無事にことが済むだろう、というのです」
それは買いかぶりだ。白鳥はまた唸り声を上げた。
河津家の下男が悲鳴を上げて飛び退り、そのまま番所から逃げた。
この土間での騒ぎに気が付いたのか、平野が怪訝な顔をして出てきた。何だ? と無言の視線が問うている。まさか本当のことを言えるはずもなく、微妙な苦笑いをするしかなかった。
そうして日も暮れ、白鳥と平野は鳥羽道場へと足を踏み入れた。
事前に言いつけてあった通り、道場はもぬけのからだ。その様子に平野が眉をひそめたが、勝負に集中するためだ、と何とか言い繕った。
白鳥は歯の根もかみ合わず、震えあがっていた。一応、道場に明かりを灯し、道場破りが来るのを待った。
「河津はまだか?」
「……よっぽど準備に念を入れているんでしょうね」
平野は腕組みをして、じっと入口を睨みつけていた。
いかばかり待っただろう。
少なくとも白鳥には、人間の一生が終わったような、そんな時間にも感じられた。入口のところで物音がして道場破りの男が入ってくる。手には例の棍棒が握られていて、その風貌はいつか見た時と同じように逆立っている。
「む」
男は平野を一瞥し、静かに頷いた。どうやら気に入ったらしい。
しかし、だ。白鳥は泣きそうになった。これからどうやって切り抜けようか。汗をだらだらと掻き、磨き上げられた板張りの床に映る自分の影を見下ろした。
「では、勝負だ」
男は河津がいないことなど、気にも留めていない。白鳥が黙りこんだまま座っていると、壁際で正座をしていた平野が怪訝な顔をした。
早くしろ、と二組の双眸が注がれる。
頬から汗が伝い、顎先から落ちた。心臓の音は全く遅くならない。体の震えも止まらない。白鳥は俯いたまま逡巡していた。果たして無事に帰る方法があるのかどうか。
「おい」
平野の剣呑な声が道場を揺さぶった。白鳥は体を強張らせた。恐る恐る二人を見て、頼るべき機転など無いことを察した。
「か、勘弁して下さい!」
半べそで土下座をする。その様子に怒りを見せたのは、意外にも平野の方だった。
「逃げるのか?」
「い、いえ!」
「じゃあ戦え」
そう冷たく研ぎ澄まされた声が飛ぶ。
だが、白鳥は何度もかぶりを振った。白鳥の力量では目に見えている。男に叩きのめされたあと、事実を知った平野に制裁されるのは泣きっ面に蜂だ。しかも腹痛野郎は一度しか痛い目を見ない。それならば全部を吐いて楽になった方がましだ。
白鳥は顔も上げないまま、真実を話した。男が勝負を求める理由と、河津が何故戦うことになったのかを。
「そ、それで、美人の女剣士を紹介するって言っちゃったんですう!」
そこまで叫び、白鳥はまた謝罪の言葉を述べた。板張りの床が軋む音がする。平野が傍らに膝をつき、白鳥の肩を優しく叩いた。
それほだされて顔を上げ、白鳥は真顔になった。一瞬でも許されるだろうと思った自分が憎い。
平野が木刀を握っていて、薄い冷笑を浮かべていた。
あとのことは、もう思い出したくもない。
木刀を振り上げた平野に追いかけ回され、盾にしようとした男が脳天に一撃を食らい、昏倒した。
平野は白鳥を引きずり、河津の屋敷まで向かった。その晩、二人の男の悲鳴が市中に木霊したことは、れっきとした事実だ。
付け加えることがあるとするならば、後日、男が平野に求婚したものの、あっさりと振られてしまったことくらいだろう。平野は吐き捨てるように言った。
「不純な動機で剣を持つ奴が、私は一番嫌いだ」