天狗②
「でね、その店がまた、凄いのなんのって」
宵を迎えた刻限に第二八番隊の仕事は終わった。彼らは連れ立って番所を出た。こうして三人で飲む機会は少ない。大抵は平野が先に帰るためである。
一応、主と仰ぐ人と飲むのである。自分でも気が付かないほど河津は浮かれているようだった。どこかの馬鹿な犬が飼い主に飛び付いているようである。平野は恬淡な様子で周囲を見、河津の言葉にそっけなく頷くだけだ。
「ほお」
今は花街の方まで出てきている。遊郭や飯屋、あとは旅籠がいくつも軒を連ねる地帯だ。
あからさまな客引きはまだいない。
彼らがいるのは花街の、それも周縁部分である。それでも人だかりは酷い。市中における夜の娯楽と言えば、天体観賞や釣り、散歩といった程度である。ひと気のない地帯に行くと強盗に出会う可能性もあるから、よほどの用が無ければ外を出歩かない。
そうした死に直面するような犯罪に出会わない数少ない場所が花街だった。畢竟、外に出たいと願う者は、光に集まる蛾の如く、この場所に引き寄せられる。
「すげえ店なんですよ!」
「……ほお」
河津の狂熱ぶりに、平野は引き気味である。普段はないがしろにしているのだ、こういう時くらい相手をしてやればいいじゃないかと、白鳥はちょっとだけ離れたところにいた。
「その店、天狗の肉を食わせるらしいんですよ」
「……天狗? 妖怪のか?」
「ええ、顔が赤くて鼻が長い、あの天狗です。森の中を飛び回るとか、何かよく分からんことばっかりする奴」
天狗ってそんな奴だったか? 白鳥は首をかしげた。だが、河津がこれ以上ない笑顔で嬉しそうに言うものだから、口は挟まないでおいた。
「でね、その肉が旨いんだそうです」
平野はあからさまに信用していなさそうだったが、やはり馬鹿とはいえ部下のことである。彼女は苦々しげに口元を歪ませつつ、小さく頷いた。
程なくして店に着いた。そこは何の変哲もない、古ぼけた建物である。店先には看板一つ立っていない。
だが、白鳥は、番所の中から見たあの熱気が、この近辺から発せられているということに気が付いていた。
この古ぼけた、よく分からない建物の前に立つ一団を、人々がちらちらと窺っている。連れ立つ人はそっと耳打ちをし、一人で道を行く者は口笛を吹く。
この雰囲気は一体何だろうか。
白鳥はさっと周囲を窺った。答えは出そうにない。店の名前は天狗屋というらしい。
河津が店の引き戸を開ける。途端に、中から予想だにしない喧騒が響いてきた。白鳥と平野は顔を見合わせた。ただの店ではないようだ。
「親父、予約していた河津だ」
河津が声を掛けると、中から威勢のいい声が聞こえてきた。
彼に手招きされて店の中に入る。
扉をさっと確認して、白鳥は口の端を歪めた。二重になっている。内側には鉄の板が張り付けられているらしい。
店の中は大盛況だった。店の入り口付近は角打ちになっていて、奥の方には小さな椅子が備え付けられている席もある。その角打ちの空間に面して厨房の一角があり、さらに奥にも調理場があるようだ。白鳥達は奥の方、椅子のある場所へと向かった。
独立した小さな机と、その四面に椅子が置かれた場所が用意されている。
三人はおっかなびっくり座った。すぐに若い女が近付いてくる。河津はもう頼む物を決めているらしい。平野は興味深そうに店の壁面や机に触れている。
白鳥は、ざっと店内を見渡した。酒は上質そうだ。白く濁った物ではなく、水のように澄んだ清酒が用いられている。
その場にいる男達は、つまみを食いながら酒を飲んでいる。料理の種類も豊富だ。根菜の煮物、焼いた油揚げ、大根おろしを添えた魚、他にも市中ではあまり見かけない珍しい種類の俵物などが用意されている。
だが、その中でも嫌に目を引くのは白い刺身だった。
最初は白身魚かとも思ったのだが、食べている人の口ぶりではそうではないらしい。向こう側が透けそうなほど薄く切られたその刺身を、人々はこぞって頼んでいる。
「あれが天狗の肉か……」
酢醤油で食べるらしい。中には柑橘の汁を搾る者もあった。その身は弾力があり、どこか淡泊なのだという。
よくは分からないが、舌にピリピリとした感覚があるという声もある。他にも天狗の煮付け、焼き天狗、天狗の肝焼き、などが供されている。男達はそれを旨そうに食い、酒を浴びるように飲んで帰っていく。厳つい顔をした店主が寡黙に手を動かしている。
白鳥と平野は、もう一度顔を見合わせた。二人して溜息をつく。河津は呑気に鼻歌を歌いながら、天狗が来るのを今か今かと待ち望んでいるようだ。
やがて酒と新香、それに突き出しとして青物の煮びたしが出された。
それを一口含んだ途端、白鳥は目をひんむいた。
厨房では、厳つい顔をした店主が包丁を振るっている。天狗の肉らしき白い物体を薄く捌いているようだ。何とも見事な手並みである。
彼以外にも一人、若い男がおどおどとした感じで調理をしている。醤油の焦げた匂いが立ち込め、炭が爆ぜる甘美な音が店内に響き、食欲をより一層そそる。
「この店、結構いけますね」
白鳥はにっこりと笑った。平野ものろのろと箸をつけ、案外と腕の良い店であると分かるや根菜の煮物を頼んだ。
「お嬢、天狗も来ますよ」
「……気の乗らん物は食わん。私の好きにさせろ」
「そんなわがまま言わずに。見てくださいよ、あの店主の手並み。ありゃ、天狗を生け捕りにするのも分かるくらい慣れていますよ」
「ふん、あれだけ豪快に捌いたら、そのうち天狗がいなくなるぞ」
「馬鹿言っちゃいけませんよ。天狗なんかそこら中にいるでしょ」
という主従の馬鹿げた会話を他所に、白鳥も舐めるように酒を貪った。
「ああ」
と思わず声が出てしまう。
質は良い。すこぶる良い。一体どこから、こんな酒を運んでくるのだろうか。
そもそも、どこで作られた酒なのだろうか。使っているのは米であろうが、その香りが口を含んだ途端に鼻孔を抜け、嚥下すると喉がかっと熱くなる。しかし、液体自体は実によく冷やされているのだ。
「あ、ほら、来ましたよ」
河津が声を上げた。天狗の刺身と肝焼きが目の前に置かれた。煮付けと焼き天狗は終わってしまったらしい。角打ちにいる連中が馬鹿みたいに食べているからだろう。
気乗りのしない平野をよそに、河津が一口食って感嘆の声を上げた。柑橘の果汁と塩だけで充分にいけるらしい。
白鳥も恐る恐る箸で一切れ摘まんだ。明かりに透かすと、白く透き通った身の美しさが際立つ。それを口に入れ、何度も咀嚼した。歯ごたえはかなり強いらしい。
一気に飲み込む。身は淡泊な味だ。しかし、これが滋養強壮に良く、そして長生きの秘訣になるのかと思うと、不思議な感慨である。結局、二人は刺身も肝もあっという間に平らげてしまった。
「……旨い、のかなあ?」
「おお、舌が痺れる。これが健康の秘訣なんだろうよ」
「なるほどねえ」
平野はその間、一度も手をつけずに煮物ばかりを食べていた。しめに天狗の肉を乗せた茶漬けを流しこみ、その晩の飲み会はあっという間に終わった。もちろん平野は食わなかった。酔った二人は冷淡な顔をしている上司に、人生の八割は損をしている、と悪態をついた。
満腹感で酒が程よく回り、白鳥と河津は上機嫌なまま帰途に就いた。平野はただ一人浮かない様子で、いつの間にかいなくなっていた。