不幸な男②
中はしんと静まり返っている。田室の家は商家と繋がってはいるが、白鳥屋と比すれば規模は小さい。店自体は田室一人でもどうにかなるし、それに手伝いが一人か二人いれば十分なのである。畢竟、彼の家には住み込みの手代や丁稚がいない。
白鳥は、その静寂を壊さないようにと忍び足で裏庭を横切り、そして勝手口から中に入った。当然のこと、夫婦二人で暮らしているから、田室がいなくなれば残るは一人しかいない。ひと気のなさに怖気を震わせながら、白鳥はさらに家の中へと足を踏み入れた。
勝手口の土間で下駄を脱ぎ、そのままぐるりと家の表の方に回って、そこから家族の居住空間へとやってくる。
やはり、どこへ行っても人の気配はなかった。豆河通りの騒がしさが、不可視の壁を一枚隔てて、遠くに感じられる。
大抵の小規模店舗にいえることだが、居住空間は驚くほど狭い。この田室の家も、人が住める場所はたった六畳の二部屋しかなかった。その内の一つに明かりが付いていたから、白鳥はさっと近付いて障子の前で膝をついた。
「さなさん、こんばんは。白鳥屋の徳次郎です」
この〝さな〟というのが田室の妻の名前だ。白鳥が直接会うのは二度目かそこらだが、相手も商人の妻である。部屋の奥から布団が重なる音がして、息も絶え絶えに女の声が返ってきた。
「入ってください」
それで白鳥はゆっくりと障子を開け、音もなくするりと部屋の中に入りこんだ。
そこは存外清潔に保たれている。ほぼ寝たきりの病人が一人いるだけだというのに、田室は清潔好きなのかもしれない。
もう一度深々と頭を下げた白鳥は、顔を上げた瞬間、自分の記憶とは全く違う、さなの様子に気が付いた。
さなはもう少し女性的なふくよかさを持っていたはずなのだが、現実に目で見ている彼女は骨と皮だけと形容しても差し支えないほど痩せ衰えていた。
記憶が正しければ、彼女は三十代半ばくらいだろうが、どうにもそうは見えない。いかにも生気が感じられない、死の間際に佇んでいるようだ。
「こんばんは」
内心の動揺をひた隠して、白鳥は気の良い笑みを浮かべた。さなの方も穏やかな笑みを浮かべていた。起き上がろうとするのを白鳥が制し、その枕元で正座をする。
二人はすぐに口を閉ざした。実質初対面の相手に、何を話すべきなのだろうか。父であれば割り切って会話をするのかもしれないが、どうやら白鳥自身はそういう才能に恵まれてはいないらしい。寝たきりの相手に季節や天気の話をするのも憚られた。
「伝介さんは、何をしに行ったのです?」
ややもあった沈黙を破って、さなが問うた。伝介というのは田室の下の名前だ。
白鳥はさっと彼女を見下ろして、その瞳に何かよからぬ感情が渦巻いているのを感じ取り、首をかしげた。
「お医者様を呼んでくると言っていましたよ」
「そうですか……」
どうにも歯切れが悪い。田室は随分、さなに尽くしているというのに、彼女の方はあまり気を良くしていないようだった。
「いつもこの時間なんですか?」
「え?」
「診療です。田室さん、慣れた様子だし、さなさんも別に体調が悪くないようだし」
「……ええ、あの人には迷惑をかけます」
やはり、さなは何か隠している気がする。白鳥はそう直感したが、どう問いかけるべきかと思い悩んだ。上手く聞き出せればいいのだが、やれる気が全くしない。これが同心としての職務ならば、ちょっとくらい心を踏み躙っても気は咎めないのだが。
また訪れた沈黙に白鳥は耐えられなかった。
それを埋めるべく不用意に言葉を発した。
「さなさん、随分と愛されていますね」
その何気ない一言――他人から見ればこの夫婦は仲睦まじいように見える――に、さなが過敏に反応した。
「そんなことは――!」
と声を荒げたところで咳き込んだ。
白鳥は慌ててさなの背中を撫でた。彼女は顔を真っ赤に染めながら、苦しそうに何度も体を揺らす。体中から力を振り絞り、何度も、何度も咳をする。
その内、過呼吸になりそうなところで、田室が部屋に飛び込んできた。遅れて初老の医者まで駆けこんできて、その場は一旦落ち着いた。ほっと胸をなでおろした白鳥を、田室が申し訳なさそうな顔で部屋の外に連れ出した。
「いや、どうも、今日はさなの調子が悪いようで」
恐縮しきりで頭を下げるこの男に、他意があるようには見えない。白鳥は首をかしげながらも、しかし自分にも責任の一端があるのでは、と思い始めていた。
「いえ、こちらも不用意なことを言ってしまったかもしれません」
素直に頭を下げる白鳥に、田室は包みを手渡した。
「今日は、申し訳ありませんでしたね」
持ってみるとじんわりと温かく、どうやら近くの料亭で特別に繕ってもらったものであるらしい、と分かる。自分の給与では手も届かないような店の物を貰うわけにもいかない。
白鳥は慌ててそれを田室の手に返そうとしたのだが、それよりも早く医者が難しい顔をして部屋から顔を出した。田室は素早く踵を返して、さなのいる部屋の中に入っていく。
白鳥はただ一人、湯気の立つ包みを片手にぼんやりと廊下に佇んだ。