偶然の産物①
非番のある日、白鳥は例によって実家に呼び出されていた。
両親は七日に一度程度しか休めない息子を酷使することに、人生の喜びを感じているようだった。白鳥が店に顔を出すなり塩の詰まった樽を指差し、こう言ったのだ。
「それ、配達しておいてくれ」
白鳥は目をぐるりと回した。
「……どこに?」
「漬物屋。吉田さんの所の」
「見習いにやらせろよ」
「お前も見習いみたいなものだろう?」
白鳥の父親は、語気を荒げた。
見れば、白鳥屋の事業は順調なようだ。丁稚はおろか番頭まで額に汗して働いている。彼らも申し訳なさそうに頭を下げていた。泣きそうな顔で懇願されては致し方ない。腰に来そうなほどの重量がある樽を抱え、白鳥は市中の喧噪のなかに消えていった。
その背中を見て、忙しそうなふりをしていた番頭達は、ほっと胸をなでおろした。
塩の詰まった樽など、荷車がなければ運べない。その荷車が全部出払っていて、誰に重労働を押し付けるか協議していたのである。そして哀れな生贄がやってきた。
白鳥の父親は、そんな薄ら暗い協議が行なわれていることを承知の上で、息子に押しつけたのだ。
彼の傍らには聡明そうな若者がいた。精悍さを知った年頃であった。その才を見込まれ白鳥屋の行商をし、この度、晴れて本店へと戻ってきたのだ。
白鳥は何も知らないまま、市中の西のはずれにある、昔馴染みの漬物屋へと向かったのであった。
昔馴染みということは子供の頃から白鳥を知っているわけで、何の用があるわけでもないのに次から次へと菓子と茶が供され、苦笑いを浮かべながら食べつくすのであった。
「さあ、食べなさい。たんと食べなさい。お腹、空いているだろう?」
若者の腹を満たすのが趣味みたいな婆さんが、冗談みたいな量の菓子を出し、茶を注ぐのである。
その帰り道、にわか雨に降られて近くの軒下に避難した時のことだった。
「白鳥徳次郎さんですよね?」
と女の子に声を掛けられた。歳の頃は十代の半ばというところだろう。まだあどけなさの残る顔には笑みを張りつけ、その白い肌は雨を弾く。猫のような大きな瞳がまん丸と見開かれ、額に張り付いた黒髪を指で流していた。
「……ええ、そうですが」
「まあ、良かった。あの、少しお話を致しませんか?」
その物腰も柔らかく、温和という言葉を擬人化したら、彼女のようになるのではないかと思わされた。切れ長の目が特徴的な顔立ちも愛くるしく感じられる。
この少女は、何の躊躇いも無く白鳥の手を取り、大きな目をますます大きくした。
「手、冷たくなっていますわ」
「まあ、雨に当たりましたから」
「そうですか……」
少女はそのまま吐息を掛けてくれた。その健気な姿に、何故だか心臓が早鐘を打つ。白鳥は口をぽかんと開けた。少女はその間抜けな顔に気が付くと、頬をちょっとだけ赤らめ、手を優しく離した。
「はしたない、とは思わないでくださいましね」
「……はあ。その、どこかでお会いしましたか?」
「何故です?」
「いえ、女の子に、ここまでされる覚えがありませんので」
少女は、少しだけ物憂げな顔になったものの、にっこりと笑って答えをはぐらかした。
取り調べの最中なら、一つ頭を使って言いくるめる気にもなるのだが、非番の日くらいは感情を深読みせずに過ごしたいものである。だから、白鳥はそのまま受け流した。
程なくして雨が止んだ。むっと来るような湿気が立ち込める中、少女は笑みを保ったまま、濡れた道に飛び出した。
「また、お会いいたしましょう」
少女は道の曲がり角へと消えた。
その翌日、白鳥は上機嫌だった。
怒るばかりで褒めてくれない女上司と、愚痴っぽい同僚とに囲まれ、自分の仕事が誰かの役に立っているのだろうか、という疑問を少しだけ抱いていたのだ。
それが昨日のように、目を引くような美人に魅力的な笑みを向けられては、頑張ろうという気にもなるというものである。
その様子に、平野と河津は顔を見合わせた。
「ついに壊れたか」
「まあ、近頃仕事続きでしたからね。二、三日置いておけば、治るんじゃありませんか?」
その失礼なことを言う二人をじろりと睨み、白鳥は資料を広げた。
この番所の同心達は書類仕事を異様に嫌う。そのため、筆まめな人間が片付けないと仕事が溜まる一方なのだ。
「そんな馬鹿なことを言っている暇があったら、働いてくださいよ」
「……なんだあ? 随分と生意気な口を聞くようになったじゃねえか」
と凄む河津に、平野は白眼を向けた。
「いや、お前も働け」
「え?」
「働け」
しゅん、とうなだれて河津もやってくる。白鳥は手早く指示を出し、筆を動かした。
昼食のあとは警邏に出る。脇には河津を従えている。何故だか体が軽く感じられて、豆河通りの混雑も嫌ではなかった。
「白鳥さん!」
通りの端の方から名が呼ばれる。河津が半眼を向け、口をぽかんと開けた。見目麗しいお嬢さんが新人同心に弾ける笑みを向けて手を振っているのだから。
「何だ、あの女」
「いずれ分かりますよ、いずれね」
白鳥は勝ち誇った様子で手を振り、そのまま河津の肩を叩いた。