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第二八番隊  作者: 鱗田陽
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不幸な男①

「ほれ、徳次郎、こっちも持って行け」

 そんな厳しい声が、市中西地区豆河通りの一角にある、白鳥屋の蔵の中で響き渡った。

声を上げているのは白鳥家当主――つまりは白鳥の父であり、その視線の先には汗みずくになった白鳥徳次郎がいた。

「ちっくしょう、今日は休みなんだぞ」

 そんなことをぶつくさと言うが、囁くほどでしかない。下着に股引を履いただけ、という姿の白鳥は、今現在、実家に呼びつけられて重労働を課せられているのだ。

 その様子を見ていた父も、帳簿から一切目も離さずに何事かを独語している。

 大きな樽を抱えあげた白鳥が大声を張り上げた。

「何か言った?」

「ああ、近頃裏の通りに変な奴がたむろしている。お前も同心ならば、そういう男を捕まえてみろ」

 この父の言い分にムッと来て、白鳥は作業する手を止めた。

「悪いけど、僕だって必死に仕事をしているんだよ。生まれてこの方、剣も振るったことがないのにね」

「そうだな。だが、同心の一員だというのなら、市民の声を聞いておくべきじゃないのか?」

「……じゃあ、どうぞ」

「どこの家かは知らんがね、不審な男が頻繁に出入りをしている」

「行商人じゃないの?」

「……それにしてはみすぼらしい。商品を持っているわけでも、金を持っている風でもない」

「じゃあ、どこかの家の柄の悪い親族とか」

「この辺りにいるのは格式の高い商家ばかりだ。そんな親族はどこかの寺にでも捨てられているだろう」

 何とも、この父と話していると実りがない。

白鳥は呆れがちに汗を拭った。塩が満載された樽など一人で運ぶ物でもないだろうに、この父は決して人を呼ぶことがない。であるから、白鳥は逃げ場もなく、船乗りですらしないような重労働に従事しているのであった。

「何が蔵の整理だよ……丁稚にやらせておけっての」

「何か言ったか?」

 蔵の入口から父の鋭い声が飛んだものだから、白鳥は思わず飛び上がった。この父も、平野ほどではないとはいえ厳しく、そして怒りっぽい。金が絡むと気長なくせに、家族相手となると口より先に手が出る男だ。

「いや、何も」

 結局、白鳥は明確に父に反論することもなく、仕事を続けた。どうやら白鳥家の経営は安泰であるようで、彼が蔵から運び出した荷物のほとんどは売り先が決まっている。

 そういうわけで、白鳥は貴重な休みに実家に呼び出され、しかも夕暮れ間近まで扱き使われた。

 彼が解放された時、すでに豆河通りは茜色に染まり始めていた。店々も戸を閉ざし、徐々に人の出入りも減っていく、という時間帯であった。

「じゃあ、体に気をつけるのよ」

 一日中労働させた癖に家族の反応は淡泊である。白鳥に夕食を食わせることも嫌って、仕事が終わるなり外にほっぽり出してしまったのだ。勝手口まで見送りに来てくれた母は、晴れがましい顔で白鳥の手を握った。

「気を付けろったってねえ……今日は体を休める日だったんだぜ?」

「まあまあ、お父さんも顔を見れて良かったって言っているし」

 この言に白鳥は目をひんむいた。

「まさか! 母さんの目は節穴か? あれはただ働きさせられて喜んでいるだけじゃないか」

「そんなことはないのよ。喜んでいたわ。今日だって、御夕飯に呼べないことを悲しんでいるんだからね」

「悲しむぐらいなら飯代くらい出せってんだよ」

 白鳥は髪の毛を掻きむしり、地面に転がっていた石ころを蹴った。まあ、こうして愚痴を言っていても、帰る時間が遅くなるだけだ。白鳥は愕然とした面持ちで踵を返した。

「またいらっしゃい」

「二度と来ないよ!」

 呑気な母に別れを告げて、豆河通りを一本離れた白鳥屋の裏手を歩いた。


 そこは商家の裏口が立ち並ぶ地帯であって、行商人が日常的に使用する。要するに商人のための私的な通りなのである。

 当然のこと夕暮れ時であれば、そこここから家庭的な音――包丁がまな板を叩く音や、薪の水分が爆ぜる音、家族の笑い声など――が響いてきて、それがより一層、白鳥の惨めさを助長するのである。

「ああ、くそ。河津さんでも誘って飲みにでも……いやいや、それじゃあ普段と変わらないな」

 なんてことをぶつくさと言っていると、とある商家の裏手の扉が軽く軋んだ。そこから悪相の男が出てきて、白鳥は足を止めた。彼は白鳥を一瞥すると、そのまま鼻を鳴らして踵を返してしまった。

 ほっと一息つく。あの男はなんだ、と心の奥底で悪態をつき、どこの店から出てきたんだ、とその敷地の裏手を覗きこもうとした。

 瞬刻、壮年の男がその開け放した戸から出てきて、白鳥は一瞬、身を強張らせた。

 まあ、ひと気のない黄昏時の裏通りで、複数の人間と鉢合わせるなど、予期すらしていなかったということだ。

 だが、二人はすぐに互いを認識して、警戒心を解いた。

「ああ、白鳥さんとこの……」

「田室さん、こんばんは」

 外の世界と接する際、白鳥は従順になる。それは厳しい父に叩きこまれたことでもあるし、処世術として白鳥自身が習得したことでもある。丁寧な態度でいれば、相手もそう無下には出来ない。

 壮年の男は辺りをちらちらと窺ってから、白鳥に笑いかけた。

「ああ、うん。君は、ご実家に寄ってきたのかな?」

「ええ、まあ。扱き使われただけですよ」

「そうか。白鳥さん、随分と喜んだんじゃないのかい?」

「息子をただ働きさせて、利益が上がったって手を叩いているかもしれませんね」

 こんな風に悪態をつく白鳥を、多少疲れた様子の田室は目を細めて見ていた。そうしていると、四十そこそこという年齢よりは老けて見える。白鳥の父の方が十ばかり上なのだが、あちらの方が若く見えるほどだった。

 その壮年の男が垣間見せる、含みのある視線に白鳥は眉をひそめるのである。

「何です? 面白い物を見るような顔で」

「いや、まあ、ねえ。白鳥さんは随分と愛情を伝えるのが下手みたいだなって」

 その言葉に白鳥は目をぐるりと回し、この田室という男が善意の塊なんじゃなかろうか、などと馬鹿げたことを思い始めていた。ただ、すぐに気を改めて、白鳥は商人の次男としての観察眼を目一杯稼働させた。

 さっと流し見た限り、田室は財布を片手に急いでいるようだ。であるから、白鳥は早いところ話を切りあげようと考えた。

「じゃあ、この辺で……」

 と言いかけた白鳥の手を、田室が強く握りしめた。男にそうされて喜ぶほど、白鳥の趣味は高尚ではない。彼は眉を吊り上げて、その手を睨んだ。

「ああ、いや」

 田室は歯切れ悪く手を離し、それから優柔不断そうな顔でそっぽを向いた。何かあるようだ。白鳥はそう直感して、夕飯のことを考えるのはやめた。このご時世、外食も中食も発展している。金さえ払えばどうにかなる世の中なのである。

「まあ、良いですよ。どうぞ何でもおっしゃってください」

 白鳥家の次男として気前の良い笑みを浮かべると、田室は露骨にほっとした顔をした。

「その、家に病気の妻がいるんだが――」

 この件に関して、白鳥は噂程度のことしか知らなかった。

 この田室は商家の店主であるのだが、どうやら他人の妻に惚れ込み、長いこと思い続けていたらしい。そして念願が叶い、その妻を娶った。何か悪しきことをして奪ったのではなく、相手が縁切りをしたのをきっかけに近づき、婚姻関係を結んだというのである。

 近くに住んでいても案外知らないこともあるものだ、と白鳥などは思うのだが、田室は一向に気にしてはいないようだった。まあ、無責任に事実無根の悪評を流す人だっているくらいだ。何か嫌な出来事でもあったのだろう。

 この田室の献身ぶりに感心しながら、白鳥は眉をハの字に寄せた。

「ええ。それはお気の毒に」

「うん、まあ、そうなんだが、今から医者の所に行かなければならなくてね。出来れば彼女についていてやってくれないか?」

「ほとんど赤の他人ですよ?」

「白鳥家の次男坊で、町奉行所の同心を、どうして信用出来ないといえるのか」

 そう言われては仕方があるまい。夕食も買ってくる、と言ってくれた田室の顔を立てて、白鳥は彼の家に入った。田室は見るからに優しげな顔で、妻をよろしく、と白鳥の背中に声を掛けた。

 その表情と献身ぶりを見ていれば、奥さんは随分と愛されているらしい、と白鳥などは直感するのであった。

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