不幸な男①
「ほれ、徳次郎、こっちも持って行け」
そんな厳しい声が、市中西地区豆河通りの一角にある、白鳥屋の蔵の中で響き渡った。
声を上げているのは白鳥家当主――つまりは白鳥の父であり、その視線の先には汗みずくになった白鳥徳次郎がいた。
「ちっくしょう、今日は休みなんだぞ」
そんなことをぶつくさと言うが、囁くほどでしかない。下着に股引を履いただけ、という姿の白鳥は、今現在、実家に呼びつけられて重労働を課せられているのだ。
その様子を見ていた父も、帳簿から一切目も離さずに何事かを独語している。
大きな樽を抱えあげた白鳥が大声を張り上げた。
「何か言った?」
「ああ、近頃裏の通りに変な奴がたむろしている。お前も同心ならば、そういう男を捕まえてみろ」
この父の言い分にムッと来て、白鳥は作業する手を止めた。
「悪いけど、僕だって必死に仕事をしているんだよ。生まれてこの方、剣も振るったことがないのにね」
「そうだな。だが、同心の一員だというのなら、市民の声を聞いておくべきじゃないのか?」
「……じゃあ、どうぞ」
「どこの家かは知らんがね、不審な男が頻繁に出入りをしている」
「行商人じゃないの?」
「……それにしてはみすぼらしい。商品を持っているわけでも、金を持っている風でもない」
「じゃあ、どこかの家の柄の悪い親族とか」
「この辺りにいるのは格式の高い商家ばかりだ。そんな親族はどこかの寺にでも捨てられているだろう」
何とも、この父と話していると実りがない。
白鳥は呆れがちに汗を拭った。塩が満載された樽など一人で運ぶ物でもないだろうに、この父は決して人を呼ぶことがない。であるから、白鳥は逃げ場もなく、船乗りですらしないような重労働に従事しているのであった。
「何が蔵の整理だよ……丁稚にやらせておけっての」
「何か言ったか?」
蔵の入口から父の鋭い声が飛んだものだから、白鳥は思わず飛び上がった。この父も、平野ほどではないとはいえ厳しく、そして怒りっぽい。金が絡むと気長なくせに、家族相手となると口より先に手が出る男だ。
「いや、何も」
結局、白鳥は明確に父に反論することもなく、仕事を続けた。どうやら白鳥家の経営は安泰であるようで、彼が蔵から運び出した荷物のほとんどは売り先が決まっている。
そういうわけで、白鳥は貴重な休みに実家に呼び出され、しかも夕暮れ間近まで扱き使われた。
彼が解放された時、すでに豆河通りは茜色に染まり始めていた。店々も戸を閉ざし、徐々に人の出入りも減っていく、という時間帯であった。
「じゃあ、体に気をつけるのよ」
一日中労働させた癖に家族の反応は淡泊である。白鳥に夕食を食わせることも嫌って、仕事が終わるなり外にほっぽり出してしまったのだ。勝手口まで見送りに来てくれた母は、晴れがましい顔で白鳥の手を握った。
「気を付けろったってねえ……今日は体を休める日だったんだぜ?」
「まあまあ、お父さんも顔を見れて良かったって言っているし」
この言に白鳥は目をひんむいた。
「まさか! 母さんの目は節穴か? あれはただ働きさせられて喜んでいるだけじゃないか」
「そんなことはないのよ。喜んでいたわ。今日だって、御夕飯に呼べないことを悲しんでいるんだからね」
「悲しむぐらいなら飯代くらい出せってんだよ」
白鳥は髪の毛を掻きむしり、地面に転がっていた石ころを蹴った。まあ、こうして愚痴を言っていても、帰る時間が遅くなるだけだ。白鳥は愕然とした面持ちで踵を返した。
「またいらっしゃい」
「二度と来ないよ!」
呑気な母に別れを告げて、豆河通りを一本離れた白鳥屋の裏手を歩いた。
そこは商家の裏口が立ち並ぶ地帯であって、行商人が日常的に使用する。要するに商人のための私的な通りなのである。
当然のこと夕暮れ時であれば、そこここから家庭的な音――包丁がまな板を叩く音や、薪の水分が爆ぜる音、家族の笑い声など――が響いてきて、それがより一層、白鳥の惨めさを助長するのである。
「ああ、くそ。河津さんでも誘って飲みにでも……いやいや、それじゃあ普段と変わらないな」
なんてことをぶつくさと言っていると、とある商家の裏手の扉が軽く軋んだ。そこから悪相の男が出てきて、白鳥は足を止めた。彼は白鳥を一瞥すると、そのまま鼻を鳴らして踵を返してしまった。
ほっと一息つく。あの男はなんだ、と心の奥底で悪態をつき、どこの店から出てきたんだ、とその敷地の裏手を覗きこもうとした。
瞬刻、壮年の男がその開け放した戸から出てきて、白鳥は一瞬、身を強張らせた。
まあ、ひと気のない黄昏時の裏通りで、複数の人間と鉢合わせるなど、予期すらしていなかったということだ。
だが、二人はすぐに互いを認識して、警戒心を解いた。
「ああ、白鳥さんとこの……」
「田室さん、こんばんは」
外の世界と接する際、白鳥は従順になる。それは厳しい父に叩きこまれたことでもあるし、処世術として白鳥自身が習得したことでもある。丁寧な態度でいれば、相手もそう無下には出来ない。
壮年の男は辺りをちらちらと窺ってから、白鳥に笑いかけた。
「ああ、うん。君は、ご実家に寄ってきたのかな?」
「ええ、まあ。扱き使われただけですよ」
「そうか。白鳥さん、随分と喜んだんじゃないのかい?」
「息子をただ働きさせて、利益が上がったって手を叩いているかもしれませんね」
こんな風に悪態をつく白鳥を、多少疲れた様子の田室は目を細めて見ていた。そうしていると、四十そこそこという年齢よりは老けて見える。白鳥の父の方が十ばかり上なのだが、あちらの方が若く見えるほどだった。
その壮年の男が垣間見せる、含みのある視線に白鳥は眉をひそめるのである。
「何です? 面白い物を見るような顔で」
「いや、まあ、ねえ。白鳥さんは随分と愛情を伝えるのが下手みたいだなって」
その言葉に白鳥は目をぐるりと回し、この田室という男が善意の塊なんじゃなかろうか、などと馬鹿げたことを思い始めていた。ただ、すぐに気を改めて、白鳥は商人の次男としての観察眼を目一杯稼働させた。
さっと流し見た限り、田室は財布を片手に急いでいるようだ。であるから、白鳥は早いところ話を切りあげようと考えた。
「じゃあ、この辺で……」
と言いかけた白鳥の手を、田室が強く握りしめた。男にそうされて喜ぶほど、白鳥の趣味は高尚ではない。彼は眉を吊り上げて、その手を睨んだ。
「ああ、いや」
田室は歯切れ悪く手を離し、それから優柔不断そうな顔でそっぽを向いた。何かあるようだ。白鳥はそう直感して、夕飯のことを考えるのはやめた。このご時世、外食も中食も発展している。金さえ払えばどうにかなる世の中なのである。
「まあ、良いですよ。どうぞ何でもおっしゃってください」
白鳥家の次男として気前の良い笑みを浮かべると、田室は露骨にほっとした顔をした。
「その、家に病気の妻がいるんだが――」
この件に関して、白鳥は噂程度のことしか知らなかった。
この田室は商家の店主であるのだが、どうやら他人の妻に惚れ込み、長いこと思い続けていたらしい。そして念願が叶い、その妻を娶った。何か悪しきことをして奪ったのではなく、相手が縁切りをしたのをきっかけに近づき、婚姻関係を結んだというのである。
近くに住んでいても案外知らないこともあるものだ、と白鳥などは思うのだが、田室は一向に気にしてはいないようだった。まあ、無責任に事実無根の悪評を流す人だっているくらいだ。何か嫌な出来事でもあったのだろう。
この田室の献身ぶりに感心しながら、白鳥は眉をハの字に寄せた。
「ええ。それはお気の毒に」
「うん、まあ、そうなんだが、今から医者の所に行かなければならなくてね。出来れば彼女についていてやってくれないか?」
「ほとんど赤の他人ですよ?」
「白鳥家の次男坊で、町奉行所の同心を、どうして信用出来ないといえるのか」
そう言われては仕方があるまい。夕食も買ってくる、と言ってくれた田室の顔を立てて、白鳥は彼の家に入った。田室は見るからに優しげな顔で、妻をよろしく、と白鳥の背中に声を掛けた。
その表情と献身ぶりを見ていれば、奥さんは随分と愛されているらしい、と白鳥などは直感するのであった。