忘れられた現実⑤
番所に入るなり倒れ込んだ目明しは下男に任せた。土間のところには、さらわれかけた子供とその母親がいる。他の同心達がなだめすかしながら話を聞いているようだ。
二人は急いで土蔵の中に入った。その一番奥では河津の怒号が響いている。
「何か喋ったらどうだ、ええ?」
案外と驚くことは、子供のような弱者が絡む犯罪に対して、河津が厳しいということだろう。いつもは犯人の境遇なんかを考えて甘くなるくせに、こういう時だけ恐ろしい。
その部屋に入った途端、白鳥は足を止めた。
中に居たのが、あの元住職だったからだ。平野はふっと笑みをこぼして肩を叩き、壁に立てかけてあった木刀を取った。
二人による取り調べは、たぶんこの番所で最も恐怖に満ちたものだろう。白鳥は心の中で念仏を唱え、部屋の戸を閉めた。
冷たい井戸水がぶっかけられる。元住職は硬い石の床に膝をつき、目を閉じたままだ。平野が耳元で何かを言っても、動くそぶりさえも見せない。
「何とか話してみろ! 口がきけんのか!」
河津が怒号を浴びせた。その声は憤りに満ち溢れている。普段の河津を知っている者ならば、たぶん、震えあがったことだろう。だが、元住職はちらと中年同心を見て、鼻で笑っただけだった。
このままではらちが明かない。白鳥は近くにあった木箱を引き寄せ、腰を下ろした。元住職はそこで初めて白鳥に気が付いたようで、眉を吊り上げた。
「こんにちは」
「……ああ、こんにちは」
元住職は薄い笑みを浮かべていた。怒り狂う二人の上司を制し、白鳥は膝の上で頬杖をついて、元住職を見つめた。
「何故、こんなことになったのかは分かりますか?」
「子供をさらおうとしたからだ」
「さらったあとはどうするんです?」
「……さてな。坊主にでもするかね?」
その人を小馬鹿にしたような話しぶりに、河津はますます眉間にしわを寄せる。それを平野が眼光だけで掣肘していた。
「殺すためでは?」
「そうだと言ったら?」
「あなたでない誰かがそれを実行することになる」
元住職は朗色を失った。前歯の抜けた口元をむき出しにして、威嚇するような顔つきになった。
「考えてみてください。あなたは疑われ過ぎている。十年前、殺害現場となった寺の元住職で、犯人はそこに勤める墓守で、あなたはそれを逃がした大戦犯だ。そんなあなたが、また事件を起こす? 十年前と同じ手口で、子供を殺した?」
白鳥は首を振った。例えこの元住職が殺人犯だったとしても、十年前は他人に罪をなすりつける知恵を持っていた。にもかかわらず、今回はしていない。
「その通りだ。俺が子供達を殺した」
元住職は振り絞るような声を上げたものの、白鳥は再びかぶりを振って、それを否定した。
「それはありえない話です。万が一、あなたがあの雑木林に近づいたとしたら? 人々は十年前のことを如実に思い出すでしょう。忌まわしい事件でしょうからね――」
そこで言葉を切り、白鳥は一つ考えをまとめた。近くにあった桶の中身を掬い、口に含んで喉を潤した。
「――だから、あなたは近寄れない。だが、あなたはわざと人目につく場所に居続けた。堂々と生活をすることで、人々の目をあなたに向けさせた。反面、あの雑木林は徐々に元の形を失っていった。神隠しの話なども広まり、木々が鬱蒼と茂り、近寄りがたくなった」
「ただの妄想だ――」
住職は険しい眼光を閃かせた。
「――お前の話は全部、ただの作り話だ」
その通りだ。白鳥が口にしているのは、証拠など無い、ただの推測でしかない。それでも彼は言葉を続けた。
「十年前から放置されていたはずの本堂には、人が住んでいたような形跡がありました。最近、浮浪者が住み始めたわけじゃないと分かるのは、本堂の周りだけは綺麗に整備されていたからです」
「……」
「あの本堂に殺人鬼が住み続けていたんですね? あなたはその事実から目を逸らさせるために、あの場所から離れなかった。事件のことを知らない子供達には、神隠しの話をして遠ざけようとした」
もちろん、こんなものは仮説にすぎない。そんなことは誰もが承知の上だ。
平野も、河津も、ひと時同心としての職務を忘れて、元住職をまじまじと見ていた。三人に見つめられると、彼は視線を落とし、忌まわしげに口元を歪めた。
「……何故、そう思うんだ?」
「霊を弔うわけでも、逃げるわけでもないあなたが何故、あの長屋に住み続けたのか。一番穿った見方をするとそこに行きついたからです」
元住職は自嘲気味に笑った。彼は河津を見て、冷ややかに言い放った。
「豆河の河原沿いに奴の仕事場がある。五年ほど前から身を整えさせて、そこで働かせていた。俺はさらった子供を、そこに連れて行く約束をしていた」
「そのあとはどうするんだ?」
河津が尋ねた。
「さあな。奴がどうやって殺すのか、俺は知らない。だが、最近は上流の方で子供を殺していた。あの寺に埋めた子供は、偶然、血に染まったあの男を見てしまったんだ」
河津は急いで部屋を出て行った。慌ただしく声を張り上げ、土間で倒れている目明しや、待機していた同心達を引きずっていったようだ。
その音が遠ざかったのを確認して、白鳥は元住職に視線を移した。
「何故、そんなことを?」
「……殺された子供達は、俺が連れ込み、抱いていた――」
白鳥は顔をしかめた。それでも元住職は、濡れた顔を手で拭い、沈痛な面持ちで目を閉じた。
「――そのうちの一人が、俺を告発する、と言ってきた。俺はそれを甘受するつもりだったが、墓守が任せておけと言ったんだ」
あとのことは簡単だ。弱みを握られた元住職は、墓守の言うがままに子供を集め、殺させた。
結局、元住職の証言通りの場所で墓守は捕まった。
その男を見た時、白鳥は唖然とした。あの時、雑木林で出会った身なりの良い男だったからだ。彼は上品な態度を一切崩すことなく笑みを浮かべていた。
すぐに取り調べが始まり、墓守は澱みなく全てを告げた。
彼の供述通り、豆河の上流にある小さな林の中には数えきれないくらいの骨が転がっていた。もちろん原形をとどめた死体もあった。彼は元住職から斡旋された分だけでなく、自分で子供をたぶらかしていたのだ。
彼はその日のうちに奉行所に送られた。
全ての仕事を終えた時には、もう朝日が差し込んでいた。
白鳥は清々しい空気を吸いながら、隣で大きく伸びをしている河津を見やった。
「全く、さぼりも大概にしないといけませんね」
「そうだな。ああ、でも今日はどこかで寝っ転がりてえなあ」
瞬刻、真後ろにあった土蔵の入口が音を立てて開いた。
二人はそっと顔を見合わせ、溜息をついた。誰がいるのかは見なくとも分かる。どうやら今日も一生懸命に仕事をしなければならないようだった。