忘れられた現実②
その小高い丘を見上げて、白鳥と河津は視線を交わした。息が詰まるような長屋の列を抜けた先に、足の踏み場もないような鬱蒼とした雑木林が広がっている。
足元には竹やツツジ、ドクダミなどが押し合うようにして葉を広げ、頭上では活力に満ちた枝葉が地面に隙間なく影を落としている。
順路通りに道を進んだはずだが、まさか終点に、これほど恐ろしい罠が仕掛けられているとは思いも寄らなかった。
「ここ、毎日警邏しているんでしょうかね」
「……逆に、していると思うか?」
白鳥は太息をした。
二人は呆気に取られながら、どこから入るべきかと頭を悩ませる。
すると、遠くの方で木々をかき分ける音がして、雑木林の中から右足を引きずった男が出てきた。実に身なりがいい。大小を差していれば武士だと勘違いしそうだ。
男は二人を見て、ぎょっと目をひんむいた。手には竹が握られている。
「こんにちは」
白鳥は商人の血を引いた欺瞞に満ちた笑みを浮かべた。男は軽く会釈をして、白鳥が腰にぶら下げている印籠に眉をひそめた。
「これは通常の職務なんですが、実はこの雑木林の中に入らないといけないんです。で、あなたはどこから入りました?」
「……ここからです」
男は俯きがちに、自分が出てきたところを指差した。見れば、綺麗に一直線、竹藪がなぎ倒されている。
「ここには、よく?」
「申し訳ありません」
「謝る必要はありませんよ。誰の物でもないんですから」
どうやら男は、雑木林に生えている竹を持ち出したことを恥じているらしいのだ。白鳥は、ますます笑みを深め、男に頭を下げた。
「ご親切にどうも」
男はまだ青ざめた顔だった。彼は白鳥達が中に入るのをしっかりと確認してから、踵を返した。右足を引きずっているところを見ると、良い職に就けず食いっぱぐれているのかもしれない。綺麗な着物を土で汚してまで、雑木林に入らなければならないのだ。
「世の中、世知辛いですね」
なんてことを呟き、彼らは雑木林を分け入った。
隙間なく植物が生えている。光が届こうとそうでなかろうとお構いなしだ。むっとするような、湿気のこもった臭いがこもっていた。
思わず鼻の頭にしわを寄せたくなる。河津は早速汗を掻いていて、袖口で拭っていた。白鳥も額に手をやった。べたついた、嫌な汗だ。
中に入ってすぐ子供達の甲高い声が聞こえてきた。雑木林の中で遊んでいるらしい。二人は顔を見合わせ、その声がする方を目指した。
傾斜を上がっていくうちに、声は段々と近付いた。
先を行く河津が声を上げる。何事か、と白鳥が首を伸ばすと、目の前に広がった一帯だけ、背の低い木々が切り倒され、足もとの草が刈り取られていた。
そのぽっかりと空いた空間で、子供達が遊んでいたのである。彼らは突如現れた大人達を排他的な表情で睨みつけた。
白鳥は素知らぬ顔をした。子供は苦手だ。対応に苦慮することはないが、出来るならあまり関わりたくないと考えている。
そのため、河津が笑みを浮かべて近付いた。もちろん、怪しまれないように印籠を見せながら。子供達が近付いてきた。
「すげえ、その剣、本物?」
同心だと分かるや目を輝かせる。どうやら合法的に武器を所持できるという一点で、男児からは人気があるようだ。
「ああ、そうだ。ちょっと話を聞かせてくれ。お前達、ここで良く遊んでいるのか?」
子供達は頷き、姦しい声を口々に上げた。河津はそれを制し、一番元気そうな子供を指名した。彼ははにかみながら後ろで指をからませ、頷いた。
「うん。昔から、ここは遊び場なんだ。まあ、今は河原の方に集まることも多いんだけど」
「……危なくねえのか?」
「大丈夫だよ、お兄ちゃんも、お父さんも遊んだって」
昔は、この丘の頂上に寺があったらしい。子供達が生まれる前に廃止され、そのままなのだそうだ。それでも、この雑木林は遊び場としての価値を失わなかった。
「それにね、ここには悪魔が住んでいるんだって」
「悪魔?」
河津は顔をしかめた。子供達は満面の笑みで、その悪魔について語った。地獄の生き物であるらしい。額に角が二本生えていて、屈強な体をしている。善悪の観念は無く、目についた子供をさらっていく。
その話を聞いて、河津はますます険しい顔をした。
「それ、なおさらあぶねえじゃねえか」
だが、子供達は首を振った。中には投網を持っている子もいる。悪魔を捕まえて、見世物小屋に売る気であるらしい。
「それで一生食っていくんだ。面白いことして、笑いながら死ぬのさ」
「……その歳で死に際まで考えるんか。俺なんか、今日を生きるので精一杯だよ」
「そりゃ、おっさんが貧乏だからだよ」
子供は実に辛辣だ。白鳥はくつくつとした笑い声を上げ、すぐに顔を引き締めた。
「そのお爺さんがね、この雑木林では神隠しも起こるっていうから、俺達はそれについても調べているんだ」
「……ほお」
「三日前にも子供がいなくなっているんだって、お母さんが言ってた」
「……ここで?」
子供達が誇らしげに頷く。河津は目をぐるりと回して、彼らを一喝した。
子供達は目をまん丸く見開いた。髭面の中年は気の良い大人らしく、肩を怒らせた。
「今日はもう帰れ! 今から俺達が調査する」
「でも――」
「お前達の両親を呼んでくるか? 駄々をこねるんじゃない」
子供達はすぐに退散した。それを見送った河津は、気まずそうな顔をして白鳥に視線をやった。
「すまんが、そういうことだ。ちょっと付き合ってくれ」
「……一杯、奢りですからね」