忘れられた現実①
市中西部の中心たる豆河通りには休みがほとんどない。
いつも南の港では船がひっきりなしに出入りして、そこから吐き出される商品が豆河を辿ってやってくるのだ。それを目当てに様々な人が出入りする。畢竟、往来は足の踏み場もないほど混雑する。
白鳥と河津は、濁流のような人いきれを他人事のように見つめていた。
「何だって彼らは、毎日同じことが出来るんですかね……」
「さあな。目の前の現実に忙殺されるからじゃないか?」
「あとは、よっぽど金儲けが好きか、でしょうね」
「親父さんのことか?」
白鳥の実家は、白鳥屋という大店を経営している。勿論その当主は白鳥の父親である。彼も毎日そろばんを弾いて、帳簿と睨めっこをしている。煩雑な商家の書類作業を好んでやるような人だ。
「あの人は仕事中毒なだけですよ」
「何だ、お前と同じだな」
白鳥は、むっとした表情で河津を睨んだ。だが、彼は汗と白い歯とを輝かせ、にっこりと笑うばかりだ。それ以上反論する気力もなく、白鳥は首を振った。
その日、白鳥と河津はいつもとは違う経路で警邏をしていた。
それは朝の会話に起因するのである……。
「……こう毎日、毎日、同じことばっかり繰り返されたら、僕の頭も腐りますよ」
今日も今日とて勤勉に昇った太陽を見上げながら、白鳥は盛大な溜息を吐いた。
番所の土間に腰かけていた河津も、頬杖を突いたまま、肌に浮いた汗を手のひらで拭った。
「まあ、なあ。人込みに入るのも億劫だわなあ」
「そうでしょう? それに引き換え平野さんは、いっつも番所の控室で涼しんでいるんだから」
当然、この一言は声をひそめた。だが、平野の地獄耳が聞き逃すはずもなく、間髪いれずに控室の引き戸が音を立てて開いた。
二人は、びくりと体を震わせ、恐る恐る音のした方を見る。そろそろ平野のことを理解しても良いのだろうが、つい失念してしまうのだ。彼女が神出鬼没で、思いのほか聴力に自信があるということを。
平野は冷淡に二人の部下を睨んだ。
「……話は聞いた」
「あ、ええと、本気では――」
「黙れ」
平野が目をすがめる。もう白鳥も河津も、骨の髄まで彼女の恐ろしさを叩き込まれている。すぐさま直立姿勢になり、歩み寄る上司を待った。
「つまりだ、お前達はこう言いたいわけだな? 別の仕事もしてみたい、と」
「え? いや、そんなつもりは――」
「白鳥、誰が、いつ、お前に発言を求めた?」
しまった、と顔を歪め、白鳥は口をつぐんだ。もっと最適なタイミングを図れば良かった。おかげで発言権を失い、河津は顔いっぱいに汗を掻いて、喉を震わせるつもりもないようだ。
平野は心底安堵した様子で頷いた。口の端が、笑みを堪えて歪んでいる。
「その心掛けを評価する。仕事をしたいと願う部下の、やる気を殺ぐのは私のやり方ではない」
白鳥と河津はそっと顔を見合わせた。何だか嫌な予感がする。だが、言うべきタイミングと権利を失った若者と、発言するつもりもない中年とでは、目の前にいる女上司に反論することは叶わない。
「実は他の番隊が、応援で一週間ほど別の管轄に行くこととなった。そこで、我々にも仕事が追加されたのだ。こちらは私一人でやろうと思ったのだが―――」
どうやら彼女も、面倒な仕事を部下に押し付けられて満足らしい。
「――その心掛けに免じて、お前達に譲ってやろう。私は涼しい部屋で書類作業をしているから、さっさと行け」
とまあ、こんな感じで朝方追い出されて、今は辺りの商人達が昼を食いに出かけるような時間帯である。別の警邏の仕事が丸々おっかぶさったわけだから、見回る距離も二倍近くに増えている。
汗みずくの河津は何度も太股をさすった。
「……白鳥、今どれくらい終わった?」
「ええと、行程の半分近くです。まだ半分は過ぎていませんね。これから西の雑木林の方を見回って、逆回りで番所へと戻ります」
そう口にするだけで疲労感が増すようだ。白鳥の方も、棒のようになった足を何度も伸ばした。まるで苦行だ、と言ったら色々な人に怒られるかもしれないが、ある日突然仕事量が二倍になったら、やっぱり誰でも同じことを思うはずだ。
二人は豆河通りの喧騒を離れて西進する。
店が密集する地帯を抜けると、ほっと一つ息を吐きたくなる。
隙間もなく建物が並ぶ光景から、塀を建てて空間を保持しようとする屋敷地へと変わったからだ。そうなると開放感があり、溜まっていた人々の熱気も明らかに薄れた。
「あとは……すぐそこの雑木林を見回って、お仕舞いですね」
「……それで帰り道もあるんだろ? はあ、こりゃ、酒でも奢ってもらわねえと話にならんな」
またしても長屋が連なる地帯が見えてきて、そのど真ん中に小高い丘がある。そこは一帯をブナや栗、杉などの木々に覆われた雑木林であった。
その近くまで来ると、他とは違う涼しげな空気が二人の身を包みこんだ。