地獄の業火⑦
藤兵衛の家は、港からそれほど離れていない場所にあった。建物の間に出来た小さな隙間に、掘っ立て小屋を建てたようなもので、影が差し、何だか陰鬱な印象を与える。
庭もない、狭苦しい家の戸を叩く。中からは晩飯か何かの良い匂いがしていた。まだ日は高い。藤兵衛は随分と早寝早起きなようだ。
「はい」
と声が掛けられ、引き戸が開いた。中から出てきた女は、藤兵衛とは不釣り合いなほど若い。三十路には至っていないだろう。ざっと見る限り身なりも悪くなく、こんな日の当たらない場所に住む必要はないように思われた。
「どうも、町奉行所の者です」
神平家の紋が入った印籠を見せると、途端に女が険しい顔をした。治安維持を担うというのは、そんなものだ。人に恨まれるし、面倒な言いがかりをつけられることもある。
「ちょっとご主人のことで」
「何かしたんですか?」
「ええと、昨晩のことなんですが……誰かと会うとか、夜中に外に出るといったことは?」
「何かあったんですか?」
「……ご主人の見習いだった、五郎さんという男性が亡くなりましてね」
女はちょっとだけ眉をひそめた。
「五郎?」
「ええ、五年前にその、事件を……」
「殺人事件ね?」
「ご主人から聞いたんですか?」
「いいえ、でも、分かる」
瞬刻、女が悲痛な表情を浮かべ、右手で顔を覆った。その憔悴した様子を見ながら、白鳥は視線を伏せた。
「それで、昨晩のことを聞きたいんです」
「主人が疑われているんですか?」
「……」
「答えてください。でないと、私も何も話せません」
白鳥は、じっと女を窺った。それほど強い意志を持っているだろうか。
その瞳には言い知れぬ憎悪が宿っているような気がした。線の細い美しいだけの女かと思っていたが、間違いらしい。女は真っ直ぐ白鳥を見上げ、激情を露わにした。
「……容疑者です。五郎さんを殺した可能性がある」
「なんて馬鹿なことを!」
女はかぶりを振った。彼女は白鳥の手を取ると、作った夕食のことも忘れて飛び出そうとした。それを何とか制し、近所の人に火の始末を任せて二人は番所へと戻った。
その道中、女はうわごとのように言葉を繰り返していたが、白鳥の耳では聞き取れないほど小さく、低い声だった。
やがて番所まで戻ってくる。建物の中に入ろうとした女を止めて、土蔵の方へと案内した。入口には河津が立っていた。どうやら取り調べは平野が行なっているらしい。
「その人は?」
「藤兵衛さんの奥さんです」
と言っている間にも、女は何の遠慮もなく土蔵の中に入っていく。その背中を二人の同心が追いかけた。
藤兵衛は入口の所にいた。奥の方は先客がいるらしい。平野は水の入った桶を担ぎあげていた。辺りはびしょぬれだ。
「あなた!」
女が駆け寄った。藤兵衛は目をまん丸に見開いた。
「小春! 何でここ――」
険しい顔をした藤兵衛の頬を、小春と呼ばれた女の鉄拳が叩いた。
藤兵衛は目を白黒とさせていた。第二八番隊の面々も唖然とした顔になった。
もう一発殴ろうと拳を振り上げたところで、平野が体を抑えた。河津もおっかなびっくり藤兵衛と小春の間に入る。
泣き喚く藤兵衛と暴れる小春とを交互に見やって、白鳥は咳払いをした。
「ええと、どちらから事情を聞けば?」
「小春……俺はお前の為に」
藤兵衛が泣きそうな顔で若い妻を見やった。髪を振り乱し、肩で息をしていた小春は、鬼気迫る表情を白鳥に向けた。
この哀れな新人同心は、ひっと息を飲み、心の中で先祖に祈りを捧げた。
小春が吐き捨てるように言った。
「その五郎という人が殺した女は、私の妹です」
「……小梅さんが?」
「ええ、私の不出来な妹でした。売春、盗み、詐欺、あの馬鹿な脳みそで思いつく限りの悪行をこなしたでしょうね」
小春はその美しい顔を歪めて笑った。蔑むように鼻を鳴らし、言葉を続けた。
「五年前もそうだった。お婆さんに目をつけたんです。実の息子にも見捨てられた可哀想なお婆さんに。上手く取り入ったんでしょうね。あの子は金が絡むとマメだし、優しくなる。そうしてお婆さんを騙した」
「小春!」
藤兵衛が喉を潰さんばかりに叫んだ。小春はこちらにも同じくらい険しい視線を向けた。藤兵衛は怯えるように肩を丸め、開きかけた口をつぐんだ。
「あなたはいつもそう。自分のことしか考えていない。私が、小春をどう思っていたのか、どう口汚く罵ったのか、思い出してごらんなさい」
「あれは――」
「全部、偽りなく本当のこと。あの女はクズだわ。あの女を殺した彼は、罪に問われるべきじゃなかった」
「こ、小春……」
「でも、あなたは何も聞いていなかったみたいね。残念」
小春は、悲しげに眉をひそめた。もう藤兵衛の方は見ていない。くるりと踵を返して、土蔵の入口の方へと歩き出していた。
「結局、あの女にまためちゃくちゃにされたのね……」
その言葉だけを残して、小春はいなくなった。
追いかけた白鳥が最後に見たのは、肩を落とした彼女が、自宅とは全く違う方角へと歩き去る姿だった。