ある世界の樹
世界に一本の樹がある。
心樹と呼ばれる たった一本の樹だ。
大きく太い、だけど、どこか頼りない樹。
物心ついた頃から、僕は、心樹に水をあげていた。
毎日毎日、雨の日も風の日も、ジョウロで水をあげた。
今は大きな心樹も、最初は、僕より小さな苗木だった。
だけど、幼い僕が無邪気にあげた水をぐんぐん飲み、どんどん大きくなった。
幼い頃は、心樹を飛び越えて遊んだりもした。
日に日に大きくなる心樹を、ジャンプして飛び越える。
一緒に成長しているみたいで、楽しかった。
だけど、それも次第に出来なくなった。
心樹の成長に、僕が追い付かなくなったからだ。
飛び越えようとして足が心樹に触れた日、あの日を最後に、心樹を傷つけるのが怖くて、僕は飛び越えて遊ぶのをやめた。
傷付けないように、枯れないように、僕は大切に心樹を育てた。
水をあげる時だけ下を向き、あとは上を向く。
心樹は、とっくに僕の背を追い越していった。
大きくて太い、だけど、どこか頼りない心樹。
根元は、丈夫そうだ。安心して寄り掛かれる。
でも、視線を上にやると、どこか物悲しさを感じる。
あの枝、ポッキリ折れてしまいそうだ。
あの辺は、少し強い風が吹けばバキバキッと大きな悲鳴をあげるだろう。
昔は青々と茂っていた木の葉も、最近は寂しさを感じさせる。
このまま枯れてしまったらどうしよう…。
もしものことを考えると涙が零れそうになる。
だから、僕にできる事はこれだけだからと、ジョウロで水をやった。
この心樹は、世界の中心にある。
だから、どこからでも見えるよう、遠くからでも目につくよう、僕は心樹に水をやる。
小さかったこの樹も、今では大きくなり、この広い世界に陰を、傘を、小さなオアシスを作っている。
これは、僕が育てた樹だ。
大きな声では言えないが、僕の誇りだ。
世界の中に、心樹はある。
ここは、好きだ。
木陰は寝るのにピッタリだし、心樹に寄り掛かっているだけで安心する。
僕は、ここが好きだ。
だけど、ここにだけ居る事は出来ない。
たまには世界の外にも行かなくては。
僕は、外の世界が苦手だ。
だって、ここでは、僕の好きな僕の心樹を否定されるから。
「もっとちゃんとしろ」
「そんなことでどうする」
僕の知っている世界以外にも世界はあって、そこにも心樹はある。
それを知ったのは、僕も、僕の心樹も、きっと世界の外で言う『おとな』に成長した頃。
衝撃的だった。
そして、ショックだった。
世界がこんなにもあるなんて。
僕の以外にも心樹があるなんて。
たくさんの人がいる外の世界には、たくさんの人がいて、たくさんの心樹があった。
みんながみんな、それぞれの心樹を育てている。
みんながみんな、他人の心樹を感じて生きている。
僕も、たくさんの心樹と出逢った。
それと同じくらい、僕の心樹も、たくさんの人と出逢った。
僕は、僕の心樹が少しでも良く見てもらえるように、出来る事はした。
出来ない事は、出来ないし。
出来る事だけして、たまに、無理もした。
だけど、やった事が上手くいったことは、ほとんどない。
ちゃんとやっているつもりでも、他の人からは、あまり良く見られない。
「だからダメなのだよ」
「話にならない」
「お前なんて、いらない」
僕の世界に、雨が降った。
雨をしのごうとして、心樹の下に入った。
ふと、空を見上げると、雨粒が目に入った。
これは、雨だ。
涙じゃない。
いつもより頼りない心樹が目に入り、僕は、誰もいない場所で強がってみた。
雨が続いたある日。
僕は、大きな斧を見付けた。
それを手に取り、ズリズリと引きずって歩く。
心樹の前まで来た。
雨の日が続いたからか、心樹は、葉もすっかり落ちてなくなり、枝も痛み、見ていて悲しくなる有り様をしていた。
僕は、涙を流すことも忘れていた。
斧を振りかぶる。
このまま心樹が腐り朽ちて行くのなら…。
そう思った。
だけど、斧が重過ぎて、僕には振る事が出来なかった。
何もできないなと、悔しくて涙を零しながら笑っていた、ある日。
「よかった」
誰かが言った。
「この樹は、切らないで」
どうして?
僕は、訊ねた。
だけど、その人は確かな答えをくれなかった。
ただ一言、
「大切にして」
と、そう言うだけで。
雨が、降り止まない。
このままでは、心樹が本当にダメになってしまう。
あの時、折ろうとしていたのに。
僕は、まだ心樹を大切にする気持ちを持っていた。
この世界に降る雨を、とめよう。
僕は、出来る限りの事をやった。
きっと、この雨は、外の世界から光をもらえば止むだろう。
そう考え、ほんとは苦手な外の世界で、光を探した。
必死に、光を探した。
本当は人が苦手なのに、自分から関わりにいった。
避けて通れる事を、自分からやりにいった。
傷の増える生き方、泥だらけになってカッコ悪いと思っていた生き方。
なんでもやった。
光を探して。
本当にこんな事をやっていて光なんて見つかるのか?
不安になることもあった。
一度や二度ではない。
このまま雨に濡れているのもいいかもしれない。
雨に濡れて、涙を隠し続けよう。
逃げ道を何度も探し出して、その度に迷って、でもなんとか逃げずに来た。
そうして、ある日。
小さくて細い光が目に入った。
太陽だ。
久しぶりに太陽の光を感じた。
心樹が、その枝に葉をつけ、キラキラと輝いていた。
まるで笑っているようだ。
僕は、嬉しくて涙を零した。
終わりの方をもう少し細かく書こうと思ったのですが、こういう形でやめました。たぶん光を探していれば、いつかきっと見つかると思ったからです。
どういう方法でどういう過程なのか、今の私にはわかりません。