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空気で乾く

彼女の家に、タオルはなかった。


正確に言えば、一枚だけあった。


玄関の棚の上に敷かれ、その上に観葉植物が置かれていた。


だから、人間が使えるタオルは一枚もなかった。


そのことに気づいたのは、僕が初めて彼女の家に泊まった翌朝だった。


シャワーを浴び、風呂場から出ようとして、僕はようやく気づいた。


「あれ」


脱衣所を見回す。


洗濯機。


洗剤。


歯ブラシ。


なぜか二キロのダンベル。


タオルがない。


棚を開ける。


ない。


洗濯機の上を見る。


ない。


仕方なく、僕は風呂場から顔だけ出した。


「美月ー」


「んー?」


リビングから返事がした。


「タオルどこ?」


「タオル?」


まるで聞いたことのない単語のように聞き返された。


嫌な予感がした。


「そう。バスタオル」


「ないよ」


「え?」


「持ってない」


僕は全裸のまま固まった。


「洗濯中とかじゃなくて?」


「うん」


「一枚も?」


「うん」


「じゃあ風呂上がったあと、どうしてんの?」


少し間があった。


美月が不思議そうな顔で脱衣所を覗き込んだ。


「空気で乾くよ」


「……空気で?」


「うん」


彼女は両手を広げた。


「空気、いっぱいあるじゃん」


その理屈なら水道もいらない。


雨が降るから。


僕は全裸のまま、彼女を見つめた。


付き合って三ヶ月。


僕はようやく、この女について何も知らなかったことに気づき始めていた。


「いや、寒いだろ」


「今日は暑いよ」


「そういう問題じゃない」


「じゃあベランダ行く?」


「なんで乾燥効率を上げようとしてんだよ」


「風あるから早いよ」


「全裸でベランダ出られるか!」


美月は「ああ」と言った。


そこは盲点だったらしい。


「じゃあ、しばらくそこにいれば?」


そう言って、彼女はリビングに戻っていった。


僕は風呂場に取り残された。


水滴が肩から落ちる。


三分待った。


全然乾かない。


五分待った。


ちょっと乾いた。


人間というのは、本当に空気で乾くのだという当たり前の事実に、僕は少し感動した。


しかし、髪からはまだ水が滴っている。


「美月ー」


「なにー?」


「ドライヤーは?」


「ないよー」


やっぱりな。


もう驚かなかった。


「髪どうしてんの?」


「そのうち乾くー」


すべてを時間で解決する女だった。


仕方なく僕はパンツだけ履いた。


濡れた。


不快だった。


リビングへ行くと、美月は床に座って食パンを食べていた。


焼いていない食パンだった。


「トースターは?」


「ないよ」


「……なんで?」


「そのまま食べられるから」


僕は冷蔵庫を開けた。


牛乳と卵と味噌が入っていた。


意外と普通だ。


「コーヒー飲んでいい?」


「いいよ」


「コーヒーメーカーは?」


「ない」


「まあ、それはいい。ケトルは?」


「ない」


「やかん?」


「ない」


「じゃあ、お湯どうすんの?」


美月は食パンをくわえたまま、鍋を指さした。


鍋。


「これで沸かす」


「……まあ、それは普通か」


僕は少し安心した。


文明が残っていた。


鍋に水を入れて、コンロに置く。


火をつける。


その横で、美月が僕を見ていた。


「なんかさ」


「ん?」


「物、少なくない?」


「そう?」


改めて部屋を見回した。


テレビがない。


ソファもない。


ダイニングテーブルもない。


ラグもない。


ベッドすらない。


昨日は床に敷いた薄いマットの上で寝た。


「テレビないよね」


「スマホあるから」


「ソファは?」


「床あるから」


「テーブルは?」


「床あるから」


「ベッドは?」


「床あるから」


床への信頼が厚すぎる。


「掃除機は?」


「ほうき」


「炊飯器」


「鍋」


「電子レンジ」


「食べられる」


「それ答えになってないだろ」


美月は笑った。


「冷たいままでも食べられるじゃん」


「昨日のご飯とか?」


「うん」


「冷たいだろ」


「うん」


「まずくない?」


美月は本気でわからないという顔をした。


「ご飯だよ?」


僕は言葉を失った。


ご飯だよ。


恐ろしい言葉だった。


温かくても冷たくても、ご飯はご飯。


快適かどうかではない。


食べられるかどうか。


彼女の世界では、すべてがその基準で判断されているらしい。


「美月ってさ」


「うん」


「今までどうやって生きてきたの?」


「普通に」


「普通じゃないよ」


「そう?」


「タオル持ってない人、初めて会った」


「でも乾いたでしょ?」


僕は自分の腕を見た。


確かに乾いていた。


「……まあ」


「ほら」


美月は嬉しそうに食パンをかじった。


なんだか負けた気がした。


その日の昼、僕たちは買い物に出た。


玄関を出たところで、空が暗いことに気づいた。


「雨降りそうだな」


「うん」


「傘持った?」


「持ってない」


「取ってきなよ」


「ないよ」


僕は立ち止まった。


「傘も?」


「うん」


「一本も?」


「うん」


「なんで?」


美月は空を見上げた。


「濡れるだけじゃん」


「だから傘さすんだよ」


「でも、そのあと乾くじゃん」


出た。


乾く。


この女にとって、乾燥は万能の免罪符らしい。


「風邪ひくだろ」


「夏だよ?」


「夏でも風邪はひく」


「そのとき考える」


僕たちは歩き始めた。


十分後、本当に雨が降った。


かなり強い雨だった。


僕はコンビニへ走ろうとした。


「美月! 傘買おう!」


「なんで?」


彼女は走らなかった。


普通に歩いていた。


「濡れるだろ!」


「もう濡れてるよ!」


確かに。


すでにびしょ濡れだった。


彼女は笑っていた。


雨の中で。


周囲の人たちは傘を差し、小走りで駅へ向かっている。


美月だけが、晴れの日と同じ速度で歩いている。


僕は仕方なく、その隣を歩いた。


「気持ち悪くない?」


「なにが?」


「服濡れてるの」


「最初だけ」


「最初だけ?」


「全部濡れたら気にならない」


そんな境地があるのか。


やがて僕のシャツも完全に濡れた。


靴下まで濡れた。


髪から水が垂れた。


最悪だった。


……はずだった。


ところが不思議なことに、五分ほど歩いていると、本当にどうでもよくなってきた。


これ以上濡れる場所がない。


水たまりも避けなくなった。


美月が水たまりを踏んだ。


僕も踏んだ。


「ほら」


彼女が言った。


「なに?」


「強くなってきた」


「なってねえよ」


「なってるよ」


美月は笑った。


「人間、だいたい乾くから」


その日、僕は人生で初めて、雨宿りをしなかった。


家に帰るころには雨がやんでいた。


夕方の風が吹いていた。


美月のTシャツはもう半分くらい乾いていた。


僕のシャツも、少しずつ軽くなっていた。


なるほど。


本当に乾く。


当たり前のことなのに、妙に新鮮だった。


僕は空を見上げた。


雲の隙間から、少しだけ青空が見えていた。


「なあ、美月」


「ん?」


「タオルくらい買おうよ」


「いらないよ」


「俺が使うんだよ」


「ああ」


彼女は少し考えた。


「じゃあ買えば?」


「買っていいの?」


「もちろん」


「置いていい?」


「いいよ」


少し嬉しかった。


彼女の部屋に、僕のものが一つ増える。


そういうのは、恋人らしい気がした。


「でも一枚ね」


「なんで?」


「二枚はいらないでしょ」


「いや、洗濯してるときとか」


「その日は空気で乾けばいいじゃん」


僕は彼女を見た。


美月は真顔だった。


この女と付き合っていたら、たぶん僕は少しずつ何かを失っていく。


家電とか。


家具とか。


便利さとか。


常識とか。


そしてその代わりに、妙な強さを手に入れていくのかもしれない。


そのときはまだ、そんなふうに軽く考えていた。


まさか半年後。


僕自身が雨の中を傘も差さずに歩きながら、


「まあ、乾くか」


と言う人間になっているとは知らずに。


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