Oh, Melos, Run!
メロスは激怒した。必ず、かの無知蒙昧の王を除かなければならぬと決意した。
メロスには性癖がわからぬ。メロスは、紳士である。巨乳を眺め、全頭マスクを好んで視聴して来た。けれども顔出しに対しては、人一倍に敏感であった。
今日未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれたこのシラクスの市にやって来た。
メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮らしだ。
メロスは、この妹と一つのパソコンを共有していた。ハードディスクは外付けなのである。メロスはそれゆえ、自身の玩具やらローションやらを買いに、はるばる街にやって来たのだ。
まず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。
今はこのシラクスの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく会わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。
歩いているうちにメロスは、街の様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、街が暗いのはあたりまえだが、けれどもなんだか夜のせいばかりでは無く、街全体がやけに寂しい。
のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。道であった若い衆をつかまえて、「何かあったのか? 二年前にこの街に来たときは、メイドが歌をうたって、萌え萌えキュンであったはずだが」と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。
しばらく歩いて老爺に会い、今度はもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。
老爺は、あたりをはばかる低声で、わずかに答えた。
「王様は、コスチュームを脱がします。」
「なぜ脱がすのだ。」
「サービスだ、というのですが、誰もそんなサービスなど求めてはおりませぬ。」
「たくさんの人を脱がすのか。」
「はい、はじめは、マイクロビキニを。それから、童貞を殺すセーターを。それから、マゾメスマスクを。それから、巨乳のエロエルフを。それから、逆バニーを。それから、デンジャラス・ビーストを。」
「おどろいた。国王は白痴か。」
「いいえ、白痴ではございませぬ。ただ、抜ければ良いだろう、というのです。このごろは臣下の趣味にも口を出され、全頭マスクを好む者に、女優ひとりずつ顔を出すことを命じております。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。今日は、六人殺されました。」
聞いて、メロスは激怒した。「あきれた王だ。許しておけぬ。」
メロスは、単純な男であった。買い物を背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、警備員たちに捕縛された。調べられて、メロスの懐中からはラブドールが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
「このラブドールで何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳をもって問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間のしわは、刻み込まれたように深かった。
「シラクスを暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、男の性がわからぬ。」
「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人の性癖を笑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の性癖をさえ矯正しようとしている。」
「結局穴があればよいのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の言葉は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いてつぶやき、ほっと溜息をついた。「わしだって、好みの熟女ものくらいあるのだが。」
「なんの為の熟女だ。ジャンルのタグを貼る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。「シチュエーションを無視して、何が熟女だ。」
「だまれ、下賤の者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、磔になってから、熟女ものが良いと詫びたって聞かぬぞ。」
「ああ、王は賢者だ。うぬぼれているがよい。私は、ちゃんと語り合う覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、
「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。家に残したハードディスクを、処分してからにしたいのです。三日のうちに、私は村でハードディスクを処分し、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな。」と暴君は、しわがれた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。
「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人のハードディスクの中身を、市中に公開して下さい。たのむ、そうして下さい。」
それを聞いて王は、残虐な気持で、そっとほくそえんだ。
生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきにだまされた振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男のハードディスクの中身を、三日目に覗いてやるのも気味がいい。
人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男の性癖を市中に公開してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴らにうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。遅れたら、そのハードディスクを、きっと晒すぞ。ちょっと遅れて来るがいい。おまえの趣味は、永遠に許してやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。性癖が大事だったら、遅れて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
メロスは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。
メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言でうなずき、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、あくる日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。
メロスの十六の妹も、今日は兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。
「なんでも無い。」メロスは無理に笑おうと努めた。「シラクスに用事を残して来た。またすぐに戻らねばならぬ。ただ、ハードディスクだけは処分する。見せぬほうがよかろう。」
妹は頬をあからめた。
「恥ずかしいか。玩具もローションも買って来た。さあ、これから行って、長めに羊たちの世話をして来い。ハードディスクの破壊は、明日だ。」
メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、ハードディスクを取り外した。そうして、少し事情があるから、ハードディスクを処分してくれ、とごみの回収業者に頼んだ。業者は、それはいけない、今日はまだ特殊ゴミの回収の日ではない、来週の木曜日まで待ってくれ、と答えた。
メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。ごみの業者も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか業者をなだめ、すかして、説き伏せた。
ハードディスクは、粉砕することにした。粉砕すれば埋め立てゴミで出せると。メロスが思い出たちとの別れを決意したころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。
保存されていたデータについては、ずいぶん名残惜しいものを感じたが、それでも、気持ちを引き立て、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのもこらえ、メンエスものを使い、手を拍った。
メロスは、満面に喜色を湛え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ、華やかになり、メロスは外の豪雨を全く気にしなくなった。
メロスは、一生このままここにいたい、と思った。このデータたちと生涯暮して行きたいと願ったが、今は、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。メロスは、わが身に鞭打ち、ついに処分を決意した。
明日の日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しようと考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。
メロスほどの男にも、やはり未練の情というものはある。今宵啞然、メロスに呆れているらしい妹に近寄り、
「ありがとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐにシラクスに出かける。大切な用事があるのだ。ハードディスクを壊しても、パソコンはそのままなのだから、決して困る事は無い。おまえの兄の一番きらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは知っているね。私の検索履歴は、決して見てはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん趣味の良い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」
妹は、辟易してうなずいた。メロスは、それからパソコンを軽くたたいて、
「仕方のないのはお互さまさ。私の家に宝といっては、妹とお前だけだ。他には、何も無い。今までありがとう。もう一つ、メロスの兄弟だったことを誇ってくれ。」
パソコンは無言で、画面は暗かった。メロスは笑って部屋に散らかったごみたちを片付けると、ハードディスクを手に取り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。
メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか。いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに準備すれば、約束の刻限までには十分間に合う。今日は是非とも、あの王に、巨乳マゾの存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。
メロスは、悠々と石を手にした。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。準備は出来た。さて、メロスはぶるんと両腕を大きく振って、ハードディスクに叩きつけた。
プラスチックのケースを割り、そろそろ中身を拝んでやろうと全工程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、メロスの手は、はたと、とまった。
見よ、手元の小箱を。ディスクは銀色の甲冑に覆われ、金城鉄壁すっくと立ちあがり、一気呵成に打ち付けた石を跳ね飛ばし、がんがんと響きはあげるものの、木葉微塵となるのはメロスの覚悟の方だった。
彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、ドライバーを突き立ててみたが、星型の穴に嵌る工具はなく、ツメをこじるペンチもない。
時間はいよいよ差し迫り、日も高くなり始めている。
メロスは小さな金槌を手にうずくまり、男泣きに泣きながらヘパイストスに手を挙げて哀願した。
「ああ、開きたまえ、堅牢なる櫃を! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達の性癖が、市中に知れ渡るのです。」
小箱は、メロスの叫びを一顧だにせず、固く口を閉ざす。金は金を噛み、槌を弾き、そうして時は、刻一刻と消えて行く。
今はメロスも覚悟した。叩き壊すより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 金城にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。
メロスは、がつんと金槌を振り降ろし、百人のダビデのように鉄壁の外装を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、細き穴が見えればドライバーを押し込み、なんのこれしきとひん曲げこじ開け、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。
ねじ穴を潰しつつも、見事、中の銀盤にたどりつく事が出来たのである。
ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにディスクを砕いた。
一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。
ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼる。
私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。友の名誉を守る為に走るのだ。
王の熟女拘泥を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。
ストッキングは黒しか認めぬ。
さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。
村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。
メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはやデータへの未練は無い。妹は、きっと佳い腐女子になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。ハードディスクさえ処分できれば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。
ほっとした時、突然、目の前に一人の人妻が躍り出た。
「お待ちになって。」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」
「放しませぬ。たくましいお方、私に情けを下さって。」
「私には年増に欲情する趣味はない。だが、余年のわずかな可能性も、これから王にくれてやるのだ。」
「その、今のあなたが欲しいのです。」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」
人妻は、ものも言わず衣服を脱ぎ捨てた。
メロスはぐっと体を折り曲げ、蝦の如く前かがみになり、手持ちの棍棒をひた隠した。
「大きいが、乳輪の色が濃い!」と乳敬奉持、たちまち、双丘の重さを確かめ、人妻のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。
一気に峠を駈け降りたが、さすがに疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。
立ち上る事が出来ぬのだ。
天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。
ああ、あ、銀盤を叩き割り、人妻の誘惑にも動じぬ紳士、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。
今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、性癖を市中に公開されなければならぬ。おまえは、稀代の節操なし、まさしく王の思う壺つぼだぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身 萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。
路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、紳士に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。
私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。
ああ、できる事なら私の服を脱ぎ捨てて、雄々しき情念をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの身体を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。
私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。
私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。
ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。
いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を高潔だと思っているだろう。ああ、思っているだろう。
ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。
セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。ハードディスクを破壊した。人妻の誘惑からも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。
ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。今なら熟女でも抱けるだろう。だらしが無い。笑ってくれ。
王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、熟女の良さを教えてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言葉が気になり始めている。
私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうしてお薦めの熟女ものを紹介するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。
セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を趣味を理解してくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか?
ああ、もういっそ、熟女フェチとして生き伸びてやろうか。家には私のパソコンが在る。ブックマークも残っている。妹も、まさか私のアカウントを消すような事はしていないだろう。
カルバンクラインだの、ボーイッシュ巨乳だの、褐色ボクっ娘だの、考えてみれば、くだらない。愛のために相手を抱く。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。
――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、鈴鈴、若い娘たちの声が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。
すぐ近くに、女子校があるらしい。よろよろ起き上って、見ると、植え込みの向こうの道を 燦爛と、何か小さく囁ながらJKたちが歩いているのである。
その太ももに吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。清き制服を両目で舐め回し、唾を飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。
歩ける。行こう。
肉体の疲労 恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、友の名誉を守る希望である。
斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。
私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。
私は信頼されている。
私は信頼されている。
先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。
メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の紳士だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。
ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。
路行く人を押しのけ、跳ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴けとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。
一団の旅人とさっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男のパスワードを調べ始めているよ。」
ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を社会的に死なせてはならない。
急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。
メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああ、メロス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方がパスワードの尋問にかけられるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。パソコンを取り押さえられても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと重たく動かし難いものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」
言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。
陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽に出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。
すでに大きなモニタにパソコンが滔滔と繋がれ、縄を打たれたセリヌンティウスは、最後の尋問にかけられている。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、ハードディスクを砕いたときのように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼のデータを人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついにスクリーンに昇り、映し出されているモニタの台座に、齧りついた。
群衆は、どよめいた。「あっぱれ。」「ゆるせ。」と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。
「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑ほほえみ、
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。熟女派になったかと、君の性的志向を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。性癖とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。わしも、ナース物から始めてみることにする。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、王様万歳。」
ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
紳士は、ひどく赤面した。
(シルレルの詩と、太宰の小説から。)




