第一話 「叱られた朝、泣いた夜」
朝の出社ラッシュの中、山下は目の前の改札を通り抜けながら、心の中で何度も同じ言葉を繰り返していた。
——やばい、今日こそは怒られる。
まだ28歳。開発課に配属されて5年目の山下は、周囲の先輩たちと比べて明らかに“仕事が遅い”という評価を受けていた。前夜も、資料を提出するタイミングが一歩遅れ、関係部署への影響を出してしまった。
「段取り力がない」
「ミスが多すぎる」
「報告が遅い」
どれも痛いほど身に覚えがあった。
彼は、怒られるのが怖かったのではない。誰かの信頼を、失ってしまうことが怖かったのだ。特に、あの人に。
開発課課長・新来。職場での呼び名は「新来課長」だが、山下の中ではもっと特別な存在だった。新人時代、右も左も分からなかった自分を、最初に「お前には、ここでやれる力がある」と言ってくれたのが新来課長だった。
その言葉に支えられて、何とかここまでやってこれた。
だからこそ、信頼を失いたくなかった。なのに、自分はまた——。
「……山下。朝イチ、ちょっと会議室いいか?」
出社早々、新来に呼ばれた。
「……はい。」
無理やり笑ってみたが、喉がカラカラに乾いていた。
小さな打ち合わせ用の会議室。ドアを閉める音が、やけに響いた。
「昨日の件、俺も連絡来たよ。総務が、納期の確認できなかったってさ」
「……はい」
「どうして、間に合わなかった?」
「途中で設計ミスが見つかって……修正に手間取って……でも、報告するべきでした。すみません」
新来は、しばらく黙っていた。いつもの珈琲を手にしていないせいか、どこか言葉の出方も慎重だった。
「なあ、山下」
「……はい」
「お前さ、自分が頑張ってるってことを、誰にも伝えようとしないよな」
「……え?」
「お前の修正内容、夜中にこっそり確認したよ。全部直してたじゃないか。しかも、手を抜かずにな。だけどな、それを“結果が遅れた”だけで消すなよ。ちゃんと、“やったこと”も報告しないと、それは存在しなかったことになる」
山下は、その場で泣きたくなった。
怒鳴られたほうが、どれだけ楽だっただろう。
でも、こうして“見ていてくれた”ことが、何より心に刺さった。
「……すみません」
「俺も、昔よく“できない奴”って言われたよ。でもな、そんなときに上司から“信じる理由”をもらえたことが、今でも忘れられない。だから、お前にも渡しておく。今のお前は、ただの“準備中”なだけだ」
言葉の一つひとつが、体の奥にしみ込んでいくようだった。
「……ありがとうございます」
会議室を出たとき、朝日がちょうど窓から差し込んでいた。
仕事は相変わらず大変だった。案件は山積み、先輩からのプレッシャー、残業続き。だけど、何かが少し変わった。
「山下、先週より進み早いじゃん」
「この仕様、よく考えたな」
ぽつりぽつりと、周囲の声が聞こえるようになった。
もちろん失敗もある。ミスもする。でも、そのたびに立ち止まって考える。
“準備中”の自分を、少しずつ“現役”にするにはどうすればいいか。
そして、ある日。
ふと、新来課長のデスクを見ると、いつもの青いマグカップに珈琲が注がれていた。彼はそれを口に含むと、わずかに目を閉じた。
その姿を見て、山下は思った。
——あの人の5分間には、何があったんだろう?
彼は知らない。この会社に入って以来、毎朝ぴったり8時に珈琲を飲む新来の“静けさ”が、世界を止める不思議な力を持っていたことを。
そしてその力が、今、次の誰かに渡ろうとしていることも。
第二部もお読みいただき、本当に感謝なのですよ。
そんな素敵な皆様に「BARトキカサネ」という短編連作という、オッサンつながりの物語がありますので、そちらも読んでくれると嬉しいです。
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