第七話 「この一杯が終わる朝に」
春の光が、開発課の窓辺をやさしく照らしている。
課長・新来、課長として20年以上をこの職場で過ごしてきた。だが今日は、その最後の一日だった。
自席の端に、青くゴツゴツしたマグカップがある。息子が小学生のときに作ってくれた、世界にひとつだけのカップだ。高校を卒業したばかりの彼は、つい先日、東京の大学に進学が決まった。
「やっぱり工学部、行くわ」
そう言って旅立っていった息子の後ろ姿を思い出しながら、新来は珈琲豆をミルに入れる。最後の一杯だ。今日もいつもと同じ、丁寧に、手挽きのリズムを守る。
「おつかれさまでした!」
背後から若い声。振り返ると、課のメンバー7人が、手作りの寄せ書きを持って並んでいた。
「やめるって、ほんとだったんですね……」
「うそでしょ、課長がいない開発課なんて想像つかないです」
笑顔と涙が入り混じった空気の中、新来はゆっくりと言った。
「おれがいなくても、大丈夫だよ。もうみんな、自分の珈琲、淹れられるだろ?」
それは、ただの比喩じゃなかった。
5分間、世界が止まるような“心の静けさ”を、自分で見つけられるようになった。焦らず、慌てず、必要なときに立ち止まれる。それを、みんなが少しずつ体得してきたのだ。
山下は、いまや後輩の指導役になっている。失敗を責めるより、まず話を聞くことを覚えた。
佐藤は、設計の主力として引っ張っている。最近では社外プレゼンも任されるようになった。
一番遅咲きだった中村は、自分の得意分野を見つけ、補佐のプロとして全体を支えている。
誰もが、自分のペースで、でも確かに変わってきた。
あの「時間が止まる珈琲」は、もう必要ないかもしれない。だけど、それがくれた“感覚”だけは、この先も生きていく。
「ところで課長、いや、元・課長。辞めたあと、どうするんですか?」
山下が真顔で聞いてくる。みんなも興味津々だ。
新来は一呼吸おいて、言った。
「少し休む。で、そのあと……喫茶店をやろうと思ってる」
「ええっ!」
「マジですか!」
驚きと笑い声が交錯する。山下が真剣な顔をして言った。
「じゃあ、俺たちの“時間が止まる一杯”は、そこに飲みに行けばいいですね」
「……そうだな。だけど、止まるのは、時間じゃないかもな。むしろ、“流れ”が見えるようになる場所にしたい」
窓の外で、桜の花びらが舞っている。春の風が吹き抜け、オフィスの空気を一瞬変える。
「お父さん、また無理してる」
ふと、心の奥で声がする。
あのとき、時間が止まった世界で現れた、小学生の姿の息子。あれは幻だったのか、夢だったのか。けれど、その言葉は、今でも胸の奥で生きている。
「だからな、ちゃんと“動きたい”んだ。自分の意思で、次に」
そう言って、新来は最後の一口を飲み干した。香ばしい苦味と、少しだけ甘い後味が、心の奥に静かに染みていく。
退職という選択は、逃げでも諦めでもない。すべてを注いだこの職場を手放すからこそ、新しい風を、自分の人生に呼び込みたかった。
午後、簡素な送別会のあと、新来は一人、ロッカーを開けて荷物を整理した。隅に置かれていた、使い古したノート。その表紙に、かすれた文字。
「“急がせるより、気にかける方が効果ある”……懐かしいな」
それは、あの珈琲中にふと思いつき、書き留めていた言葉だった。
ノートを閉じて、新来は最後に振り返る。
この場所で、自分はたくさんの時間を“止めて”、そして“動かして”きた。部下たちと過ごした無数の朝。静かな5分。背中で伝えた思い。すべてが、今の自分を作ってくれた。
これからは、その経験を携えて、まったく新しい場所へ向かう。
誰かの疲れをほどくような、香りと余白のある空間をつくりたい。
そして、そこで誰かがまた“次”へと進めるような、一杯を淹れられたら――
夜。帰宅した新来を、家のポストに届いた手紙が出迎えた。
差出人は、東京の大学に行った息子。
「お父さんへ
進学、やっぱりちょっと不安だけど、がんばってみる。あとさ、最近、珈琲飲めるようになったんだ。こっちに来たら、一杯、いっしょに飲もうな」
新来は、青いマグカップにそっと目をやった。
そうだな。今度は、ふたりで淹れよう。
静かな朝に、言葉のいらない5分を分けあうのも、悪くない。
香り立つ湯気の向こうに、新しい時間が、もう始まっている。
―第一部 完―
ここまで読んでくれてありがとうございます。
トキカサネの☕️一杯は、少しでもあなたの心を軽くできたでしょうか?
二部では、部下の○○が!?!?!?
次回も、ほんの少し時間が止まる瞬間をお届けできたら嬉しいです。
それでは、また次の☕️一杯でお会いしましょう♪




