第六話 「変わらないもの、変わっていくもの」
「……今日も、珈琲がうまい。」
月曜の朝、課長・新来はいつものように出勤前の珈琲を淹れていた。青いマグカップから立ちのぼる湯気。もう何度も味わってきた香りなのに、今日はなぜか、胸の奥までじんわりと染み込んでいく気がした。
息子とは、先週少しだけ、ほんの少しだけ距離が縮まった。特別な会話を交わしたわけではない。ただ、一緒に座って、温かい飲み物を飲んだだけ。けれどその沈黙は、かつての“無関心”ではなく、“理解”に近いものだった。
職場に向かうと、開発課のフロアには張りつめた空気が漂っていた。部下たちは皆、次のプロジェクトの大詰めに向けて忙しなく動いていた。
7人の部下。それぞれに個性があり、悩みがあり、成長の道筋がある。
ふと、新来は一人の背中に目を留めた。
中村――開発課で唯一の女性技術者。几帳面で、どこかいつも孤独な空気をまとう彼女は、最近、周囲とのやりとりを避けているように見えた。
「……中村、元気ないな」と、新来は呟きながら、手にしたマグカップの珈琲をひと口。
その瞬間――。
時が止まった。
文字通り、止まった。タイピングの音も、コピー機の唸りも、誰かがこぼしたため息も、すべてが凍りつく。
「来たか……久しぶりだな」
新来は立ち上がり、静まり返った空間をゆっくり歩いた。目の前にある“止まった時間”は、もう彼にとって恐れではなかった。ただ、大切な誰かの声を聞くための“間”であると知っていた。
彼女のデスクに近づく。画面に映っているのは、製品設計の3Dモデル。彼女が一人で担当しているパーツだ。完璧なはずの設計図。その端に、ひとことだけメモが残っていた。
《確認済。だけど、本当にこれでいいのか、不安》
新来は思わず息を呑んだ。彼女がこのメモを誰かに見せるつもりだったのか、それともただの独り言なのかはわからない。でも確かに、ここに“揺らぎ”がある。
彼女のファイルの横に、そっと自分の手書きメモを差し入れる。
「不安があるってことは、それだけ責任を背負ってるってことだ。それは、立派な才能だと思うよ。――K.A」
時計の針が、音もなく動き出す。周囲に流れる空気が、再び喧騒に変わっていく。
そしてその数分後、彼女がふと書類の山の下からそのメモを見つけた。誰が書いたかは明白だった。
彼女はしばらくそれを眺めてから、そっと頷く。そして、自席を立ち、同じプロジェクトチームの若手に声をかけた。
「これ、一緒に見直してもらっていいですか?」
そのやり取りを、新来は自席から静かに見ていた。
(……ちゃんと動いたな)
珈琲の香りが、ふたたび彼のマグの中で漂っていた。もうこの能力がいつまで続くのかは、わからない。けれど、その5分間がある限り、誰かの心のひだにそっと触れることができる。
ふと、ポケットのスマホが振動した。妻からのLINEだった。
【今日のお昼、時間ある?】
【みんなでラーメン行こうって話になったんだけど】
新来は思わず笑みをこぼした。
「なんだ、そんな日も来るのか」
すっかり成長した息子との距離。それが少しずつ、けれど確実に縮まっていることを、今、確信した。
珈琲の時間は、魔法でも奇跡でもない。
けれどそこには、誰かの目を見つめる余裕と、声にならない思いを汲み取る静けさがある。
そしてその“静けさ”は、今日もまた、誰かの心をやわらかく解きほぐしていくのだった。




