第五話 「君が未来を選ぶとき」
日曜の朝。静かな住宅街に、まだ春の冷たさを残した風が通り抜ける。
課長・新来は、少し遅めに目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光は柔らかく、寝室の空気はほんのり珈琲の香りが漂っていた。妻が先に起きて珈琲を淹れているのだろう。
洗面を済ませ、リビングに向かうと、キッチンでは妻が新聞を読みながら珈琲を啜っていた。高校生の息子は、例によって自室にこもりきり。朝からイヤホンをして、何か動画を見ているのか、返事すらない。
「最近、あの子、ますます話してくれないわね」と妻がぽつり。
「まぁ、年頃だしな」と返したが、新来の胸には言葉にならないもどかしさが残った。
彼もわかっていたのだ。自分が“話しかけるべき時”を、長い間、すり抜けてきたことを。
若い頃の激務、開発のトラブル、納期に追われる日々。息子が小学生のとき、運動会を見に行けなかったことがある。何も言わなかったが、その日を境に、父を誘うことが減っていった。
「いつか話せるタイミングが来るだろう」と思っているうちに、息子は背を伸ばし、声も低くなり、父の知らない“世界”に生きるようになっていた。
その夜。新来は、久しぶりに自分で珈琲を淹れた。青いマグカップにゆっくり注がれるその一杯。
「……今夜は、来るかな」
そうつぶやき、カップを口に運ぶ。喉を通るその瞬間、あたりが静まり返る。世界が止まった。時計の針も、テレビの音も、すべてが凍りついたような感覚。
そして、そこに現れたのは――
「あ、おとうさん」
小学生時代の息子が、リビングにぽつんと立っていた。小さな体、少しだけ乱れた髪、無邪気な目が新来を見つめる。
「おとうさん、明日運動会なのに、また会社でしょ?」
懐かしい声が、胸に突き刺さる。あの日言わなかった言葉。ここに来て、時間を越えて届く。
「ごめん……あの頃、ちゃんと見てやれなかったな」
新来は膝をつき、小さな息子に目線を合わせた。
「おとうさん、珈琲ばっかり飲んで、忙しいって言ってばっかりだったもんね。でも……おとうさんがさ、最近やさしくなったの、なんとなくわかるよ」
小さな息子は、そう言って微笑んだ。
「いまの息子とは、どう接していいかわからなくてさ」
「無理に話さなくても、伝わってるよ。おとうさんが、ちゃんと“こっち”見てくれるようになったの、わかるから」
その言葉は、不思議と“今の息子”からも届いているような気がした。
時間が戻る。リビングの時計の針が再び動き出す。遠くで、息子の部屋のドアが少しだけ開いた。
「お父さん、珈琲……ある?」
「えっ?」
新来は、まるで夢から覚めたように瞬きをした。
「いや、なんか、香りにつられたっていうか」
「あるぞ。ちょうど淹れたとこだ」
新来は青いマグを片付けながら、もう一つのカップを取り出した。息子のために、少し甘めのカフェオレ。
キッチンのテーブルに二人並んで座るのは、いつぶりだろうか。言葉は少なかったが、それで十分だった。
珈琲の湯気が、静かに親子の距離を埋めていく。
そして新来は確かに感じていた。
――もう、時間は止まらなくてもいい。
止まらない時間の中で、自分の想いを渡せる瞬間がある。それを知っている人間は、きっと、これからも誰かのために“動き続けられる”。
そう、あの静寂の5分間は、今をちゃんと生きるためにあったのだ。




