第四話 「静けさの中のメッセージ」
朝7時20分。
課長・新来は、玄関でネクタイを締めながら、リビングの奥にちらりと視線を送った。
息子の部屋のドアは閉まったまま。高校生になった息子は、最近とみに無口で、顔を合わせても「おはよう」の一言くらいしか返ってこない。スマホを握りしめているか、イヤホンをつけているか、もしくは机に向かって黙々と勉強しているか。
「まあ、反抗期ってやつだよな……」
そう言い聞かせて出勤するのが、もはや朝のルーティンのひとつになっていた。
会社に着くと、新来はお決まりの場所――自席の左奥の、壁際にある電気ポットの前に立つ。
カップは、もちろん、あのゴツゴツとした青い陶器。小学生だった頃の息子が、図工の授業で作ったやつだ。口は少し欠け、底の焼きは甘い。でもなぜか、どんなマグよりも珈琲がうまい。
豆を挽く音。
お湯を注ぐ音。
立ち上る香り。
そして――
静寂。
まただ。時間が、止まる。
この奇跡のような5分間は、今や新来にとって、仕事よりも、成果よりも、何より貴重な時間となっていた。
今回は、部下の佐藤に関することが気にかかっていた。入社3年目、まじめで誠実、だが最近どこか覇気がない。ミスはないが、挑戦もなく、会議でも発言が減った。何か、引っかかっているのだろうか。
新来はふと、佐藤のデスクへと足を運ぶ。彼の書類棚の奥に、小さな封筒が挟まっているのを見つけた。抜き取ってみると、封筒の上に「退職願(未提出)」と書かれていた。
一瞬、心臓が跳ねる。
「……そうか。辞めるつもりで、いたのか」
静止した時間の中で、新来は数秒、目を閉じた。
若手が育たず、辞めていく――そんなことはどこの部署にもある。だが、自分のもとから去っていく部下を、ただ見送るだけの上司でいたくはない。
新来は、デスクに戻り、小さなメモを一枚書いた。
それをそっと、佐藤のモニターの下に差し込む。
「“辞めたい理由”より、“残りたい理由”を考えてみないか」
時間が動き出すと、オフィスはまたいつものざわめきに包まれる。
佐藤は最初、メモを見て目をしばたたかせたが、すぐに背筋を伸ばし、まっすぐに新来の方を見た。
何も言わなかったが、その目に宿った光が、全てを語っていた。
週末。新来は珍しく何の予定もない休日を迎えていた。
リビングの窓際で珈琲を淹れていると、息子がキッチンに現れた。
「……香り、すごいな」
息子はそう言いながら、チラリと新来の手元を見ていた。
「飲むか?」
「……今、ちょっとだけなら」
無造作にそう答えた息子が、珈琲カップを受け取り、ソファに腰を下ろす。
対面に座った新来も、自分のマグを手に取り、静かにひと口、啜った。
「最近、忙しいか?」
「まあ……部活と塾と。テストも近いし」
会話はそれだけだったが、不思議と心があたたかくなった。
言葉じゃない。こういう時間の共有が、互いを近づけていく。
「なあ」
新来は、ふと思い立って言った。
「小学生の頃さ。お前、図工でマグカップ作ったの、覚えてるか?」
「んー……あのゴツゴツのやつ?」
「そう。会社で、今でも毎日使ってる」
息子は少し驚いたように眉を上げ、それからふっと笑った。
「……変なの」
「変だよな。でも、なんか落ち着くんだよ。お前が頑張って作ったやつだと思うとさ」
息子は、マグをゆっくり回しながら、ぼそりと呟いた。
「……そういうの、言ってくれればよかったのに」
新来の胸に、じんわりと沁みていく言葉だった。
「時間が止まるのは、もういい。現実のこの時間が、少しずつでもちゃんと進んでいるなら、それでいい」
ふと、背後で気配を感じて振り返ると、そこに――あの、時間停止中に現れる“彼”が立っていた。小学生時代の息子の姿。どこか夢のような、その気配。
「おとうさん、ありがとう」
そう言ってにっこり笑い、彼はすっと消えていった。
新来は、微笑んだ。
不思議な珈琲の力は、もしかしたらもう必要ないのかもしれない。
でも、もしまた5分間の静寂が訪れたら――
その時は、誰かの“時間”を守るために使おう。
そう決めて、新来は部屋の灯りを消した。
――珈琲の香りが、少しだけ家族の距離を近づけてくれた。
そして、静かに伝わる想いが、確かにこの場所に根を張っている。




