第三話 「伝わる、気配」
開発課の若手社員、山下は、ここ数週間、課長・新来の変化に気づいていた。
これまで新来課長と言えば、数字に厳しく、成果主義を掲げて部下を追い込むタイプだった。
「結果はどうだ?」
「納期は守れているのか?」
その言葉が飛び交い、社員たちはいつも時間に追われ、せわしない雰囲気が社内を包んでいた。
しかし、最近の新来課長は少し違っていた。
忙しい朝でも、静かに珈琲を淹れ、一口ずつ味わう仕草が増えている。
しかもそのたびに、彼の表情はどこか穏やかで、オフィスに流れる空気まで変わっているように感じられた。
山下はそんな課長の様子を見て、内心戸惑いながらも少し安心していた。
「忙しいのは変わらないけど、なんだかこっちも肩の力が抜けるような……」
そんなある日の昼休み、山下はふと課長のデスクの前を通りかかった。
そのとき、足元に小さな紙切れが落ちているのに気づく。
拾い上げてみると、そこには走り書きのメモがあった。
「急がせるより、気にかける方が効果ある(珈琲中に思いついた)」
意味はすぐにはわからなかった。
だが、課長が何かを感じていること、仕事のやり方を変えようとしていることは伝わってきた。
山下はこっそりメモを元の場所に戻した。
その日の午後、山下は担当していた設計図面の不具合を指摘される。
ミスは致命的ではなかったが、彼の心は深く沈んだ。
報告しようかどうか迷う間もなく、焦りが襲いかかる。
そんな中、新来課長が近づいてきてこう言った。
「山下、明日の朝、いっしょに珈琲を飲もう。」
翌日、朝早くに出社した山下は、課長が手際よく豆を挽き、ゆっくりと珈琲をドリップする姿を見て少し驚いた。
部屋に漂う珈琲の香りは、忙しい日常の中に一瞬の静寂をもたらしていた。
課長は山下に向き直り、優しく言った。
「失敗、していいぞ。」
山下は戸惑いながらも目を見開いた。
そして、課長は続ける。
「俺も若い頃、三日連続で製品を壊したことがある。でもな、不思議と、そのあとちゃんと覚えてる失敗って、成長につながってる。」
その言葉が山下の胸にじんわりと染み渡った。
失敗を恐れていた自分が、少しだけ楽になった気がした。
「ありがとうございます、課長。」
山下は思わず声を震わせて答えた。
この瞬間から彼の心に新しい決意が芽生えた。
――この人についていこう。
その日から山下は、失敗を恐れず挑戦し、課長の言葉を胸に刻んで仕事に取り組んだ。
社内の雰囲気も徐々に変わり始め、部下たちの表情に明るさが戻ってきた。
ある日、業務の合間に山下はふと、新来課長が自分の席に置いてある青いマグカップを見つめているのを目撃した。
そのカップは、新来の息子が小学校の図工で作った、素朴な青色のものだった。
「そのマグカップ、いつも使っているんですね」
山下が声をかけると、課長は少し照れたように笑った。
「ああ、これな。息子が小学生の頃に作ってくれたんだ。
今はもう高校生だけど、あの頃の息子がこうしてそばにいるような気がしてね。」
その言葉に山下は胸が熱くなった。
忙しい日々の中で、課長は大切なものを忘れずにいたのだと感じた。
新来はその夜、青いマグカップに残った冷めた珈琲をじっと見つめた。
もうあの“時間が止まる”奇跡は訪れなくなったが、彼の心は確かに動いていた。
「俺の5分は終わった。けど、その時間の意味は大きかった。部下にも、息子にも、少しずつ静かな時間を分けてやれている気がする。」
珈琲の香りはただの飲み物ではなく、新来にとって時間と心をつなぐ大切なものになった。
それは他人にも時間を渡せる、不思議な力を秘めているのかもしれない。
翌朝、山下はいつもより少し早く出社し、課長のもとへ向かった。
「課長、今日も珈琲、一緒にどうですか?」
自然な笑みを浮かべる山下に、新来も満足げに頷いた。
「もちろんだ。今日も一緒にやろう。」
時間はもう止まらなくても、伝わる気配がそこにあった。
そして、それがこれからの彼らを支え続けるだろうと、新来は感じていた。
静かな朝の珈琲タイムは、単なる休息ではない。
それは心を通わせ、成長を育む時間だった。




