第二話 「珈琲がつなぐ距離」
朝の淡い光が、ゆっくりとオフィスの窓から差し込む。
課長・新来、開発課の課長として7人の部下を抱え、多忙を極める日々を送っていた。
案件は常に山積み、終わることのない会議が連なり、資料作成や問題対応に追われる毎日。
しかし、そんな慌ただしい生活の中で、彼には唯一の「ルーティン」があった。
それは、朝8時ちょうどに淹れる一杯の珈琲だ。
その珈琲は、息子が小学校の図工の時間に作った、青くてゴツゴツした形のマグカップに注がれていた。
今や息子は高校生で、背丈も伸び、すっかり大人びた雰囲気を漂わせているが、その小さかった頃の面影は、このマグカップを通して鮮明に彼の心に蘇ってくる。
「今日も一日、乗り切らなきゃな」
新来はそう呟きながら、ゆっくりと珈琲を口に運ぶ。
すると突然、まるで世界のスイッチが切られたかのように、周囲の音が一瞬にして消え失せた。
部下のカタカタとしたキーボードの打鍵音も、電話の呼び出し音も、窓の外を行き交う車の音さえも消え去った。
時間が止まったのだ。
この5分間だけ、自分だけが動き、すべてが静止する特別な時間。
多忙な日常の中で、唯一自分だけの自由な時間を手に入れる瞬間だった。
新来は目を閉じて深呼吸をする。
この時間の間に、彼は部下一人ひとりの顔を思い浮かべ、仕事の様子を観察し、心の中で話しかけることができる。
特に気になるのは、若手の山下だった。
山下は入社5年目。重要なプロジェクトへの参加、慣れない仕事に日々奮闘している。
だが、彼の焦りは隠せず、ミスを恐れて萎縮してしまうこともしばしばだった。
「焦らず、着実に進めるんだ」
新来は山下の机に、小さなメモを書いた。
『焦らず、着実に。君なら必ずできる』
このシンプルな言葉は、普段無口な山下の心に響くことを願った。
時間が再び動き出すと、山下はそのメモを見つけ、小さく息を吐きながらも、少しだけ表情が和らいだ。
「課長、ありがとう……」
その一言に、新来は密かな喜びを感じた。
こうした小さなやり取りの積み重ねが、職場の空気を少しずつ変えていく。
彼は部下一人ひとりの成長を信じ、見守り続けているのだ。
しかし、職場での顔と、家での顔は違った。
家に帰ると、高校生の息子は自室にこもりがちで、スマホを片手に過ごす時間が多い。
会話も減り、親子の距離は少しずつ離れていくように感じられた。
新来はそのことを胸に引っかかりながらも、仕事の忙しさに押しつぶされそうになっていた。
「もっと、息子と話せたらいいのに」
そう思いながらも、なかなか時間も気持ちも作れない自分に苛立ちを感じていた。
そんな彼にとって、朝の珈琲タイムの5分間は唯一、自分の心と向き合う静かな時間だった。
そして、その中で小学生だった息子の姿がふと現れることがあった。
あの頃の純粋な笑顔と、柔らかな声。
「おとうさん、無理しすぎないで」
その声は、疲れ切った新来の心をそっと包み込み、どこか忘れていた大切なものを思い出させてくれた。
「ああ、そうだな。ちゃんと休まなきゃ」
新来は目を閉じて深呼吸をし、心の中でそうつぶやいた。
日々の忙しさに押しつぶされそうな中で、この時間だけは自由に呼吸できる特別なひとときだった。
ある日、仕事が立て込んでいつもより遅くなった帰宅時。
玄関のドアを開けると、息子がリビングで勉強している姿があった。
その姿を見て、新来は心がほんの少しだけ軽くなった。
「お疲れさま」
そう声をかけると、息子は顔を上げて微笑んだ。
「うん、今日は頑張ったよ」
短いけれど、久しぶりの会話。
新来はその瞬間、決意した。
「もっと息子のために時間を作ろう。そして部下たちにも、もっと目を配ろう」
次の朝もまた、彼はマグカップに珈琲を注ぎ、5分間の時間停止を迎えた。
その時間の中で、部下たちの頑張りを見守り、小学生の息子の優しい声を聞きながら。
「今日も一日、全力で」
新来は静かにマグカップを置いた。
朝の光が彼の背中を優しく照らし、心は確かな希望とともに動き始めていた。




