第三話 「答え合わせ」
父が会社を辞めると聞いたのは、ちょうど梅雨が明けた日のことだった。
「えっ……やめるって、定年までまだあるでしょ?」
リビングのソファに座った僕の問いに、父は少し笑った。
「うん。でもな、次に進みたくなったんだよ」
それだけ言って、父は湯気の立つマグカップに視線を落とした。
青くて、厚ぼったい陶器。僕には見慣れた“あのマグ”だった。
それは、父が毎朝珈琲を飲むときに使っていた特別なカップ。
それを手にしているときの父は、なんだか“戦闘モード”じゃなくなる。
穏やかで、でも芯の強さがにじんでいて。
「……本当は、何が理由なの?」
僕は思い切って聞いてみた。父は少しだけ間を置いてから、視線を上げた。
「お前、最近よく本を読んでるな」
「え?うん……」
突然の話題転換に戸惑ったけど、最近の僕が、学校の図書室で哲学やエッセイ、ビジネス書まで手を伸ばしているのは、確かだった。
「“問いを立てられる人”が、これからの時代は強いって、誰かが言ってた」
「……俺?」
父は少し驚いたように笑って、「お前、俺の話ちゃんと聞いてたんだな」と呟いた。
そう。たぶん、僕はずっと父の言葉を、背中を、見つめていたんだと思う。
高校2年になった僕は、進路についてぼんやりと考え始めていた。
周囲は受験モードに入りかけているけど、僕はまだ明確な目標がなかった。
ただ、“働く”ということの意味は、なんとなく父から学んでいた気がする。
夜遅くまで設計図に向かっていた父。
時には疲れて帰宅し、テレビの前で寝落ちしていた父。
でも、土曜の朝には必ず豆を挽いて珈琲を淹れていた。
「俺な、自分の時間を人に分けられる人間になりたかったんだよ」
父が言ったその言葉は、今でも僕の胸に残っている。
夏休みが近づくある日、父が僕を喫茶店に誘った。
ちょっと不思議な店—だった。
「この店に来ると、自分の中の音が聞こえる気がする」
父はそう言って、二人分の珈琲を注文した。
「今日は、これを飲んでから話そう。な?」
運ばれてきたカップの中から、ふわりと深い香りが立ちのぼる。
僕はゆっくりと口をつけ、目を閉じた。
苦み、酸味、ほんの少しの甘さ——不思議と、言葉が胸の奥から湧いてくる感覚。
「お父さんさ、ほんとは会社で何かあったんじゃないの?」
「うん。まあ、な」
父は珍しく素直にうなずいた。
「部下たちが、すごく育ってきててな。正直、俺がいなくても回るようになった。……いや、むしろ、俺がいることで少し成長を抑えてしまってたかもしれないって、ある日ふと思ったんだ」
「……寂しくない?」
「そりゃ、ちょっとはな。でも、嬉しかった。だから、もう俺の役割は次に進むことだって思った」
その言葉を聞いて、僕の胸に熱いものがこみあげた。
――そうか。父は、自分がいなくても大丈夫な世界をつくってきたんだ。
それって、すごいことだ。
「でも、俺は父さんがいなくなるの、寂しいよ」
「ありがとう。そう言ってもらえるのが、いちばん嬉しい」
父は僕の肩にそっと手を置いて言った。
「でもな、これからは……俺、お前の背中を押す係になるわ」
その日の夜、僕は机に向かって、久しぶりに手書きで日記を書いた。
「今日、父とちゃんと話をした。
彼がどれだけ人のために時間を使ってきたのかを知った。
そして、俺もいつか、自分の時間を誰かに渡せる人になりたいと思った——」
部屋の隅に置いてある、父が誕生日にくれた小さな手挽きミルを見た。
珈琲を淹れる習慣は、まだちゃんとはできていない。
でも、いつか僕にも、誰かの時間を静かに包み込めるような、そんな香りが似合う日が来るだろうか。
僕の問いはまだ続いている。
でもきっと、その先にある“答え合わせ”を、誰かと分かち合える日が来ると信じている。




