第二話 「父が見ていたもの」
教室の窓から、午後の陽射しが斜めに差し込んでいる。
世界史の授業中だが、俺はノートに落書きをしていた。いや、落書きじゃない。昨日の夜、父がぼそっと言った一言を、何度もなぞっていたのだ。
「進路、悩んでるか?」
あの人はいつもそうだ。核心には触れず、でも刺さる言葉を置いていく。
問いかけるようで、見透かすようで、逃げ道を残してくれる。
授業のチャイムが鳴って、ペンを止める。
もうすぐ三者面談だ。クラスの友達はみんな、親とどう話し合うかでワイワイしている。でも俺は、正直うまく話せる自信がない。父との間には、目に見えない「空白」がずっと横たわっている。
それでも、あの一言が心に残っていた。
家に帰ると、父は台所で珈琲を淹れていた。自分で豆を挽いて、手動のドリップで淹れる。面倒なことが好きな人だと思っていた。でも、今は違う。
その姿を見ていると、なぜか安心する。一定のリズムでお湯を注ぐ姿が、世界からざわざわした音を消してくれる。
「……飲むか?」
「うん」
父がマグカップをもう一つ用意する。青い、ゴツゴツしたやつ。あれ、もしかして……?
「これ、俺が作ったやつじゃん」
「だな。小三の図工」
そう言って、父は笑った。懐かしさと、少しの誇りが混じったような笑みだった。
俺はそのカップを両手で持ち上げて、珈琲を一口飲む。少し苦い。でも、なんか落ち着く味だ。
「お前、昔は毎日、なんでも話してたよな」
ぽつりと父が言った。
「今は、まあ……それでいいんだけどさ。たまに、ちょっと寂しい時があるんだよ」
俺は驚いた。父がそんなことを言うなんて。
「俺さ……進路、まだ決めてない」
口に出すと、胸の中のもやが少し晴れた。
「そうか」
父はそれだけ言った。そして、もう一口、珈琲を飲んだ。
「……悩むのが、仕事みたいな時期だからな」
その言葉に、なぜか泣きそうになった。
父は、きっと俺のすべてを知っているわけじゃない。でも、ちゃんと“見て”いてくれていた。
次の日の夜。父の部屋にそっと入ると、デスクの上に見慣れないノートが置いてあった。
表紙には「ATARAI NOTE」と書かれていたが、横に小さく「未来ノート」とメモが貼られていた。
中をめくると、そこには父の手書きの言葉が並んでいた。
「自分のやりたいことを、思いつくだけ書いてみる」
「小さな頃に好きだったものは?」
「人のために何かした経験はある?」
まるで、俺の頭の中の整理を手伝ってくれるかのようだった。
このノートを、父は俺のために作ってくれたのかもしれない。
いや、そうだ。父は、何も言わずに、こういうことをする人だ。
「……なんでだよ」
胸の奥が、きゅうっとなる。
俺はその晩、一ページ目にこう書いた。
「父みたいに、人の話をちゃんと聞ける大人になりたい。」
数日後、三者面談の日が来た。
教室の前に、父と並んで歩く。俺のことを見て、先生が少し笑った。
「お父さん、お若いですね」
「いや、もう50だよ。でも、まだちょっと走れるかもな」
冗談っぽく言ったあと、父は俺の肩を軽く叩いた。その手が、不思議とあたたかかった。
「じゃあ、今日はよろしくお願いします」
そう言って、俺たちは席に着いた。
先生が進路の話をし始める。でも、俺はすぐにこう切り出した。
「まだ、決まってません。でも……決める気はあります」
先生が驚いたようにこちらを見る。
父が、うなずいてくれる。
あのノート、そしてあの一杯の珈琲が、今の俺をここに立たせてくれている。
進むべき道はまだぼんやりしているけれど、少なくとも今は、自分の足で立てている気がした。




