第一話 「父の背中、遠くて近くて」
俺の父は、いつも忙しかった。
朝は誰よりも早く出ていき、夜は誰よりも遅く帰ってくる。土曜も日曜も関係なく働いていることも多かったし、俺が小学生の頃なんて、「パパと遊ぶ時間」は特別なご褒美みたいなものだった。
高校生になった今、その距離はさらに広がった気がする。
いや、正確には「近づこうとしてない」のは、俺のほうかもしれない。
「おはよう」
朝食の席で、母さんが声をかけてくる。父さんはもういない。
「お父さん、今日も早いのね」
母さんは苦笑いしながらトーストを焼く。
スマホをいじりながら、俺は適当に相づちを打った。
「うん……」
ふと、リビングの棚に目が止まる。そこには、昔、図工で作ったゴツゴツした青いマグカップが飾られていた。
あれは、小学3年のときだった。焼き物の授業で作った、世界一いびつなマグ。
それを父さんは、「これが一番飲みやすい」って笑って、今でも毎朝使っているらしい。
不器用で、真面目で、家族にはちょっとだけ不器用な父さん。
でも、たぶん、俺にとって初めて尊敬した「大人」だった。
高校では、進路の話が本格的に始まっていた。
「大学、どうするの?」
先生も友達も、みんな将来の話をしてる。
けど俺は、正直ピンと来ていなかった。
何がやりたいか分からない。何ができるかも分からない。
そんなモヤモヤのなかで、ふと、父さんの仕事について考えるようになった。
会社では課長だとか部下が7人いるだとか、仕事が大変だとか、母さんから断片的に聞いてはいたけど、実際何をしているのか、どう働いているのか、俺はよく知らなかった。
「一日、父さんを見てみたいな」
ふと思った。
いや、きっと昔から思ってたのかもしれない。
そんなある日、ちょっとした事件が起きた。
部活から帰ると、母さんが電話をしていた。相手は父さんの会社の人らしい。
「えぇ、急に体調を崩されたようで……いえ、病院には……えぇ……」
心臓がざわついた。
「どうしたの? 父さん、倒れたの?」
思わず問いかけると、母さんは電話を終えてから、ゆっくり頷いた。
「大丈夫よ。ただの疲れだって。でも……」
でも——が続く言葉の重さを、俺は初めて真正面から受け止めた気がした。
病院に向かう車のなか、俺はずっと無言だった。
父さんが病気になったなんて。自分でも驚くほど動揺していた。
「大丈夫。点滴受けて、少し休めばすぐ元気になるって。先生も言ってたし」
母さんがそう言ってくれても、胸の奥にあるザラザラした不安は拭えなかった。
そして、病室。
ベッドの上には、少し痩せた父さんが静かに横たわっていた。
いつもは背筋がピンと伸びてて、会社の誰よりもキリッとしてるって母さんが言ってたけど、今はただ、ちょっとだけ眠ってるおじさんだった。
いや、父だった。
「……お父さん」
声をかけると、ゆっくりと目を開けた。
「お、来たか」
それだけ言って、父さんは笑った。
あの、昔から見てきた、不器用だけど温かい笑顔だった。
なんだよ、そんなに心配するほどじゃなかったじゃん。
そう思った瞬間、目頭が熱くなった。
「……倒れるほど働くなよ、バカ」
泣きそうな声で言うと、父さんはちょっと照れくさそうに言った。
「倒れて初めて、気づいたんだよ。休むのも、仕事のうちだってな」
病室で、二人で話した時間は、俺にとっては宝物になった。
仕事の話、部下の話、珈琲の話、そして……俺が小学生のときに作ったマグカップの話。
「毎朝な、あれで飲むと、心が落ち着くんだよ。不思議と、時間が止まる感じがする」
父さんがそんなことを言ったとき、俺は何も返せなかった。
でも、心のなかで、何かが動いた気がした。
次の日、父さんは退院して、また仕事に戻った。
だけど、なぜか表情が柔らかくなっていた。
「今朝は、ドリップの時間を3分にしてみた。いい香りが出たぞ」
そんな、どうでもいいことをわざわざ報告してきた。
「ふーん。よかったじゃん」
そう返した俺もまた、今までよりちょっとだけ素直に笑えた気がした。
家のなかの空気が、少しずつ変わっていく。
父さんが変わったのか、俺が変わったのか。それは分からない。
でも、俺は思った。
——この人の背中を、ずっと見てきたんだ。
遠くて、近くて、眩しかった父の背中。
いつか、あの背中に追いつきたい。
いや、追いつく必要なんてないのかもしれない。
ただ、ちゃんと向き合いたい。
そう思った高校生の秋のことだった。




