第三話 「その香りに、あなたがいる」
朝の空気が、やけに静かだった。
会社の正面玄関をくぐるとき、山下は、まだどこか信じられない気持ちで足を止めた。数日前、新来課長が、自ら退職を申し出たという話を聞いたからだ。
「なんで……?」
出社してからも、ふとした瞬間に問いが頭をもたげる。まだ50代。社内での評価も高く、部下たちからも慕われていた。むしろ、いよいよ次の部長候補として期待されていた存在だった。
にもかかわらず、「部下が育ったから、あとは任せるよ」と笑っていたらしい。
山下は新来課長に、育ててもらった。叱られたことも、支えてもらったこともある。そして、あの“奇跡の一杯”のこと――今でも、時々思い出す。
あの日から、何かが変わった。
自信がついた、と言えば簡単すぎる。でも、自分の中に「仕事って、失敗してもいいんだ」と思える余白ができていた。
それをくれたのが、あの珈琲であり――新来課長だった。
「……あかん、今日は最後やのに、ちゃんと話せへんままや」
山下は自分のデスクに座ったものの、集中できなかった。社内はどこかそわそわしていて、誰もが新来の“退職のその日”を意識していた。
しかも、新来は送別会を断ったらしい。
「静かに去るのがいいんだよ。最後まで、課長らしくいさせてくれ」
その言葉も、彼らしい。だが、やはり寂しかった。
午後3時過ぎ、新来は一人、会議室にいた。普段、面談やブレストに使う小さなガラス張りの部屋で、窓の外を眺めていた。
山下はそっとノックし、ドアを開けた。
「課長……いや、新来さん。少し、いいですか」
新来はにっこり笑った。「ああ、いいタイミングだ。入って、座って」
すでにテーブルには、見覚えのある青いマグカップ。そして、もう一つ、新品のマグと珈琲ドリッパーが置かれていた。
「今日のために、ちょっと特別な豆を用意したんだ。君にも、一杯付き合ってほしくて」
湯を沸かす音が静かに室内に響く。ドリッパーに挽きたての豆が入れられ、ゆっくりとお湯が注がれると、あの、心がほどけるような香りが立ち上った。
「あの日の珈琲を、思い出します」山下が言った。
「そうか。でも、今日のはちょっと違うんだよ」新来は微笑んで、続けた。
「これは、“引き継ぎの珈琲”なんだ」
「……引き継ぎ?」
「俺がいなくなっても、君たちはきっとやっていける。その確信を持たせてくれたのが、君だよ。みんな成長した。けど、やっぱり君が一番、変わったと思う」
山下は言葉が出なかった。
「俺はね、ずっと“指示を出す側”にいることに慣れてた。でも、不思議な珈琲を経験してからは、“受け取る側”になってみたくなったんだ。君たちから、いろんなことを教えてもらったから」
「それで、次のステージに?」
「ああ。50代って、まだまだ遅くないからね。俺は珈琲と人をつなぐような場所を作りたいと思ってる。喫茶店を始めるよ。名前はもう決めてるんだ。“その一杯だけ、時間が止まる”って感じの意味を持たせようと思ってる。」
山下は息をのんだ。
「え……それって……!」
「うん、君に話したこと、覚えてるんだろ? 不思議な5分間。君にとっても、何かが動き出した瞬間だったはずだ」
山下は、小さくうなずいた。
「……課長。俺、あの5分を、今でも思い出します。時間が止まったのか、それとも、心が動き出したのか……でも、あれから、自分の仕事に、誇りが持てるようになったんです」
珈琲が注がれ、二人は静かにマグを口に運ぶ。
そして、その香りに――時間は、たしかに動き出した。
「それにしても……」山下は、マグを見つめながらつぶやいた。「新来さんが喫茶店をやるなんて、想像もしてませんでしたよ」
「はは、俺も自分で驚いてるよ。でも、思えばずっと、珈琲って“会話のきっかけ”になってくれてた。君が失敗して落ち込んでた日も、俺が悩んでた日も、誰かが誰かのそばにいた時間には、だいたい珈琲があった」
「……その店、きっと名前を聞いただけで泣きそうになりますね」
「泣くなよ、まだ生きてるんだから」
二人は笑った。ガラス越しに見える外の風景も、どこか柔らかく見えた。
しばらく沈黙が続いた。けれど、その静けさが心地よい。
「君に託したいものがあるんだ」
そう言って、新来はカバンから、茶色いノートを差し出した。
「これは……?」
「“この一杯が、背中を押す”っていうタイトルで、君たちとの記録を綴ったノートだ。俺の目線で、日々のことや気づきを書いてる。最初のページには、君のあの大失敗のことも、ちゃっかり書いてあるけどな」
山下はノートを開き、最初の一文を読んだ。
山下圭介という若者が、今日、涙を堪えて立ち上がった。彼が、いつかこのチームを引っ張る日が来る。たぶん俺が去る日、その背中を押す一杯が、彼を守ってくれるだろう。
山下は、ページから顔を上げた。
「……こんなの、ズルいです」
「ズルい?」
「だって、もう辞められても何も言えなくなるじゃないですか」
「だから、ちゃんと引き継ぐんだ。今度は君が、誰かの背中を押す番だ」
言葉が胸にしみた。課長がくれたこの時間、この香り、この一杯――全部が、山下の背中を押していた。
「お店には……いつから?」
「もう少し先かな。改装中の古民家を使おうと考えているんだ。場所は、決まったらこっそり教えるよ」
「絶対、行きます」
新来は、立ち上がった。
「そろそろ、行くよ。もう時間だ」
「課長……!」
山下が何かを言いかけたとき、新来はポケットから小さな紙袋を取り出した。
「この豆、店で使うやつの試作品。君に最初の一杯を任せたいんだ。誰かに淹れてあげて。珈琲は、不思議と人を動かすから」
紙袋を受け取りながら、山下は深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。俺、もっと頑張ります。……いつか、俺も誰かの一杯になれるように」
新来は、それを聞いて、にっこり笑った。
「もうなってるさ。気づいてないだけでな」
そして、静かにドアを開けて、去っていった。
誰にも見送られず、でも、誰の心にも確かに残る背中だった。
***
数ヶ月後。ある雨の午後。
古びた木の扉に、小さな看板がぶら下がっていた。
”珈琲 ときかさね”
扉を開けた女性客が、ふと香りに足を止める。
「……なんだろう、この香り。懐かしいような、落ち着くような」
カウンターの奥から、新来が笑顔で現れる。
「いらっしゃいませ。おすすめのブレンドがあります。一杯、いかがですか?」
***
その頃、山下は社内の若手メンバーを集めていた。
「今日は、お前らにちょっと変わった珈琲を淹れる。……この一杯で、お前らの未来が、少し変わるかもしれない」
笑いながら言ったその口元には、かつての新来と同じ穏やかさが宿っていた。
珈琲を通じて紡がれる、想いと時間。
香りに乗って、今日も誰かの背中を――そっと、押している。
―第二部 完―
ここまで読んでくれてありがとうございます。
トキカサネの☕️二杯目は、どうだったでしょうか?
三部では、ついに息子の無双劇が始まる……かも。
次回も、ほんの少し時間が止まる瞬間をお届けできたら嬉しいです。
それでは、また次の☕️一杯でお会いしましょう♪




