第一話 「この一杯だけ、時間が止まる」
課長・新来、50歳。開発課の課長として7人の部下を束ね、日々膨大な案件と会議に追われている。仕事の量も質もどんどん増えていく中で、彼の毎日はまるで絶え間ない波に揉まれているようだった。
朝の会社は慌ただしい。キーボードを叩く音や電話のベル、部屋の隅で小声で打ち合わせをする声が入り混じり、まるで騒音のように響き渡る。新来のデスクにも今日の締め切りが書かれた赤い付箋が山積みだ。
そんな中で、彼が唯一心を落ち着ける時間があった。
それは、毎朝8時ぴったりに淹れる一杯の珈琲。
彼の愛用するマグカップは、息子が小学校の図工の授業で作ったものだ。青く塗られた素朴な陶器は、釉薬のムラがあり、角ばった形状もどこかゴツゴツしている。
会社の誰も、そのカップを褒めることはない。むしろ「なんだ、その変なマグは」と鼻で笑われることもあった。しかし、新来はこのカップにだけは、密かな愛着を持っていた。
「息子の手作りだからな……」
その気持ちをそっと胸にしまいながら、毎朝の一杯を丁寧に淹れる。香りを深く吸い込み、口に含んだ瞬間、疲れた身体にやわらかな温もりが広がっていく。
その日も、いつも通りのルーティンだった。
だが、彼が一口含んだ瞬間、周囲の世界がぱたりと静まり返った。
「……あれ?」
普段は気にも留めない、部下のキーボードを打つカタカタという音。外の道路を走る車のクラクションやエンジン音。すべてが、音を失った。
新来は目を見開き、周囲を見回した。すると、彼以外のすべての人や物が、まるで時間が止まったかのように動かない。
「どういうことだ……?」
しばらくその場に立ちすくんだが、時間が止まった世界の中で、ただひとり自分だけが自由に動けることに気づく。
最初の戸惑いは大きかった。どうして自分だけ動けるのか、その理由がわからず混乱した。
しかし3日目には、この不可思議な現象のパターンを見抜いた。
「この珈琲を飲んだ直後、5分間だけ、時間が止まるんだ……」
その事実を受け入れた新来は、時間停止中にやれることを探し始めた。
最初は溜まった書類の整理に使った。動かない世界の中では、邪魔されずに集中できるため、仕事がはかどった。
次第に、彼は少しずつこの“停止時間”を使いこなしていく。
部下の机にこっそり飴を置いたり、同僚の報告書の誤字を直したり。普段は気づかないような小さなミスを静かに修正していった。
さらには、疲れている同僚のデスクに「おつかれさま」とだけ書かれた小さなメモをそっと置いたりもした。もちろん誰も気づかなかった。だが、何かが少しずつ、確実に良い方向へと動いている気がした。
そんなある日、不意に時間が止まった世界の中で、小さな声が耳に届いた。
「……おとうさん、また無理してる。」
新来は振り返った。そこに立っていたのは、小学校低学年の頃の息子の姿だった。
今は高校生の息子は、すでに背も伸びて少し頼もしい青年だが、目の前にいるのは幼くて無邪気な子どもだった。あの頃の純粋なまなざしで、彼のことを見つめている。
「この珈琲はね、“休んでほしい人”にしか飲めないんだよ。」
息子はそう言ってにっこり微笑んだ。その笑顔は疲れきった父の心に、ぽっと灯りをともすようだった。
新来はその言葉に胸が熱くなった。激務の中で自分を追い込んできた日々。休みたいのに休めない自分。そんな自分を、息子はちゃんと見ていてくれたのだ。
翌朝、彼はいつもよりゆっくりと家を出た。時間停止の珈琲はもう飲まなかった。けれど不思議なことに、悔しさはまったくなかった。
なぜなら、珈琲の香りがするたびに、「ちょっと休んでいこう」と自分に声をかけられるようになっていたからだ。
そうして新来は、忙しい日々の中でも、自分を見失わず、少しずつ心に余裕を取り戻していった。
彼にとって、あの一杯の珈琲は、単なる飲み物ではなく、時間を止める“魔法”のような存在になったのだった。
忙しい毎日の中で、ふと立ち止まりたくなる瞬間があります。
仕事に追われ、部下や家族との距離に悩み、自分の時間が持てない日々。
この物語は、そんな時に「もし時間が止まる瞬間があったら?」という小さな問いから生まれました。ある一杯の珈琲を通じて、部下や息子、そして自分自身と向き合いながら成長していく姿を描いています。
仕事も家族も、どちらも大切にしたい。
でも、どうしたらいいのか迷う。そんなあなたにも読んで欲しい、ほっこりと温かい物語です。
珈琲の香りとともに、ぜひ楽しんでみてください。
よろしくお願いします。by MMPP.key-_-bou




