第1話 兆候 - 境界の揺らぎ
21世紀も半ばを過ぎた頃、人類の科学技術はかつてない飛躍を遂げていた。中でもAI(人工知能)の発達は目覚ましく、医療、経済、そして日常生活のあらゆる場面で、その恩恵は人々の生活を豊かに、そして効率的に塗り替えていた。もはやAIなしの社会は想像もつかないほどに。
そんな進歩の喧騒の影で、古来より囁かれてきた「超常現象」や「異世界」といった言葉は、過去の遺物として片付けられようとしていた。科学の光が、世界の隅々までを照らし尽くそうとしているかのように見えた。
しかし、全てが解明されたわけではなかった。
「…諸君、我々の長年の研究と、最新AI『ミネルヴァ』によるシミュレーションの結果、ついにその存在を理論的に証明することに成功した」
白衣を纏った老齢の男、国立超常現象研究機構(通称:オカルト研)の所長である古河は、重々しく口を開いた。薄暗い会議室には、政府関係者や軍の幹部、そして選りすぐりの科学者たちが集まっていた。プロジェクターには、複雑な数式と日本列島の立体地図が映し出されている。
「古来より伝承として語られてきた、我々の世界と隔絶された、もう一つの世界…そして、それを隔てる不可視の『結界』の存在を」
一瞬の静寂の後、会議室はざわめきに包まれた。半信半疑の声、嘲笑にも似た囁き、そして強い好奇の眼差し。古河は意に介さず、淡々と続けた。
「ミネルヴァは、過去の文献、地質データ、微弱なエネルギーの揺らぎを解析し、結界の位置をほぼ特定しました。それは…日本のとある山岳地帯の奥深くです」
AI『ミネルヴァ』。それは国が総力を挙げて開発した最新鋭の戦略分析AIであり、その予測精度と情報処理能力は他国の追随を許さないレベルに達していた。そのミネルヴァが導き出した結論となれば、一笑に付すわけにはいかない。
政府高官の一人が、咳払いをして口を開いた。「古河博士、その…『異世界』とやらに、我が国にとって何らかの利益が見込めるというのですかな? 例えば、未知のエネルギー資源とか、革新的な技術とか…」
古河は静かに頷いた。「可能性は十分にあります。ミネルヴァは、結界の向こう側から、我々の既知の物理法則では説明できない特異なエネルギーパターンを検知しています。それは、新たな技術革新の鍵となるかもしれません。無論、危険も伴いますが…」
会議は数時間に及んだ。最終的に、政府はAIミネルヴァの提案を受け入れ、「未知領域の学術調査及び資源探査」という名目で、結界の向こう側への調査隊の派遣を決定した。表向きは平和的な調査だが、その実態は、最新鋭の装備を持つ軍の特殊部隊を主軸とした、リスク管理を最優先とするものだった。
一方、その頃。
博麗神社。幻想郷と外の世界を隔てる博麗大結界の守護者である博麗霊夢は、いつものように縁側で退屈そうにお茶を啜っていた。長閑な昼下がり。しかし、ここ数日、彼女は言いようのない違和感を覚えていた。
「…なんだか、空気がざわついてるのよね」
独り言ちる霊夢の傍らで、ほうきに跨ったまま器用に宙に浮いていた霧雨魔理沙が、訝しげに眉を寄せる。
「異変か? また面倒なことになるのはごめんだぜ」
「そういう派手な感じじゃないのよ。もっとこう…ピリピリするっていうか、結界が…少し揺らいでるような?」
霊夢は結界そのものだ。その揺らぎは、彼女自身の感覚にも影響を及ぼす。それは、今まで感じたことのない、細かく、それでいて不気味な振動だった。まるで、外から何か硬いもので、絶えず結界をノックされているような。
「気のせいじゃないのか? お前、最近ヒマそうだったし」
「失礼ね。でも、本当に妙な感じなのよ。虫の知らせってやつかしら…」
その時、神社の裏手にある森の奥から、微かな、しかし確実に異質な「音」が響いてきた。それは自然の音ではない。金属が擦れるような、あるいは機械の作動音のような、幻想郷にはそぐわない響きだった。
霊夢と魔理沙は顔を見合わせる。
霊夢の目が、いつもの弛緩した雰囲気から、鋭い巫女のものへと変わった。
「…やっぱり、何か来るみたいね」
幻想郷に、まだ誰も知らない脅威の足音が、静かに、しかし確実に近づいていた。