2.婚約者さまは、やはり優秀なお方です
離宮に引っ越してすぐ、ユリアはユリウスに秘書官をつけた。
王家の公務をこなす王太子だというのに、彼の最低限の世話をする使用人はわずか数名で、側仕えも兼任しているという粗雑なあつかいだった。つまり、仕事のスケジュールを管理する人間さえいなかったのだ。
「ユリアさまのおっしゃる通り、ユリウスさまはとても優秀です。」
今までの公務の遅れは、確実に誰かの悪意によって引き起こされたものだったのだろう。
「そういえば、先日謹慎を解かれた者たちは予定どおりに配置できたのかしら?」
「多少、強引に行かなければならない場面もありましたが、すべて予定通りです。」
「ありがとう。」
ユリウスとの顔合わせのお茶会で謹慎処分を受けた使用人たちは、ユリア付きの使用人となり、スパイとしてめぼしい敵対勢力の元へ送り込んだ。ユリウスと第二王子の権力分配の現状を考えれば、そう長く待たずして、何らかの報告が受けられるだろうとユリアは予想した。
「ユリウスさまは、あなたの目から見ても優秀……とても嬉しいわ。」
「スケジュールの管理をせずとも、公務をお渡しするだけで、すべて期限内に終わらせてしまえるのです。優秀と言わずして、どう表現できましょう。」
信頼できる者をユリウスの秘書官とした。その彼の評価が嬉しくて、ユリアは思わず満面の笑みを浮かべた。
「そのうえで、殿下はユリアさまとのレッスンの時間を作ることを可能となさいました。」
「いよいよ、ユリウスさまの訓練の開始ね。」
ユリウスに向けられていた悪意は、ユリアが徹底的に排除した。彼の立場を貶めたい者のせいで、幼いころから何をしても否定され、無視され続けた結果、ユリウスは悲観的になり、やがて自己嫌悪に陥ったのだ。
「わたしが離宮入りしてから掃除した者たちは?」
「そちらも、問題なく仕込みをして雇い主に送り返しておきました。」
この様子では、ユリウスを厭う者によって意図的に派遣された者たちも、思惑通りにこちら側へと招き入れることに成功し、スパイとして逆に送り返せたようだ。これで、守備は上々。ユリアが満足気に微笑んでいると、公務を終えたユリウスがあらわれた。
「ユリウスさま、まずはスピーチを直しましょう。」
「スピーチ?」
「お気づきでした?ユリウスさまは、もうわたくしの前で、戸惑う口調はなさいませんの。」
離宮での生活が半月を過ぎた頃には、ユリウスのどもりはすっかり解消されていた。
問題は、その解消が『ユリア限定』であることだった。
「それは、ユリアだと安心できるからだ。」
「嬉しいですわ。ならば、話されるときはいつもわたくしを思い浮かべてくださいませ。」
ユリアお得意の聖母の微笑みが出る。ユリウスは照れたようにつぶやいた。
「それは……難しい……かな?」
「そうですわね。」
すんなりと同意したユリアに驚き顔をあげたユリウスが笑う。
目元はまだ隠されているけれど、ユリウスが俯くことはなくなった。
使用人たちも、彼に対する態度を改め、誠心誠意尽くすようになった。
「ユリウスさま、まずはゆっくり呼吸をしましょう。」
「深呼吸……」
「そうですわ。わたくしを見て、ゆっくりと呼吸を」
前髪の奥から感じる視線に瞬きを忘れる。
――この人は、とても素直な人だわ。素直すぎて悪意に染められてしまっただけ。
自分の言葉通り、ゆっくりと深呼吸をするユリウスを、ユリアも黙って見つめていた。
「呼吸をしてからゆっくり、言葉を選んで話されればよいのです。」
見つめ合ったまま、二人だけの間に流れる独特な空気を感じる。この時間が不思議と心地よいことを、ユリアはよく知っていた。この半月の間にユリアがユリウスの安心できる場所と位置づけされたように、ユリアもまた、ユリウスの隣にいられることに安らぎを感じることを実感していた。
――この人の変わる姿を見てみたい。
政略結婚の相手としての興味ではなく、ユリウスの存在は、確実にユリアの中で大きくなっていた。
「ユリウスさまを急かせる人間は、おりませんのよ。」
「えっ?」
「そんな人間、わたしが許しませんわ。」
ユリアが真顔でそう告げる。
アハハ
その真剣な瞳に、ユリウスが声をあげて笑う。
「君は頼もしいな。」
ユリウスの素直な反応を見るたびに、ユリアの心はぽかぽかと温まる。
『適材適所のエキスパート』と揶揄されるようになってから、人との付き合いは読心術を駆使した戦場だった。心の裏側を読み、行動を予期し、気を張って常に相手の望む会話をする。貴族など、笑顔の裏で策略を練り、相手の弱みを握ろうと会話の掛け合いをする。
「虎の威を借るなんとかですわ。わたくしの後ろには陛下がいらっしゃる。そして、ユリウスさまにはわたしがいる。ねっ、安心できますでしょ?」
「そうだね。」
ユリウスの言葉は、彼の心そのままだ。嘘偽りのない本心が返されることに、ユリアは癒されていた。
――この人の優しいところも、素直なところも守りたい。
少しだけ、二人の間の空気が僅かに変わる。
それがなんだか落ち着かなくて、ユリアは次の訓練を提案する。
「今度は、考えすぎるのをやめる訓練をしましょう。」
「考えすぎるのをやめる?」
「先ほどとは、真逆の訓練ですわね。」
「そうだね。」
「まずは、やってみませんか。」
ユリウスのスピーチを直すために、ユリアはあらゆる文献を読んだ。そして、その道に詳しい専門家にも相談を繰り返した。残念なことに、確定的な答えは得ることができず、手段は多岐にわたっていた。だからこそ、ユリアは知り得たすべての手段を吟味し、ユリウスに最もふさわしいと納得のいくものから訓練を開始したのだ。『変わるきっかけ』――それさえあれば、ユリウスの優秀さが花開くことがわかっていたからだ。
「ユリウスさまには、安心してお話ができる環境が整っておりませんでした。でも、王子教育を真面目にされていらしたおかげで、基本的な姿勢や腹式呼吸はすでにマスターされています。『焦らずに話すこと』は、婚約式とお披露目の夜会でのスピーチではとても有効なはずです。」
「スっ…スピーチ。」
「ほら、緊張なさると悪い癖が」
ユリアはユリウスの手をとった。
「考えすぎず、わたくしが質問したら三秒以内に応えてくださいませ。これは、会話に対する苦手意識の克服になります。プレッシャーの中で、本能的に感じ取った答えを口にする習慣をつける。そうすることで、日常会話は難しく考えずに答えられるようになりますわ。」
「……わかった、やってみよう。」
手を取ったままユリウスを見つめる。
「好きな色は?」
「えっ?」
「色ですわ。」
「あっ…青」
「好きな食べ物は?」
「魚料理」
「好きなデザートは?」
「フルーツタルト」
「好きなものは?」
「ユリア」
「えっ……?」
「あっ」
互いに照れくさくなってパッと手を離すと、別々の方向を向いた。話した手の行き場がなくて、思わずスカートを握りしめる。ユリアの鼓動が耳元で大きく鳴り響く。
――顔が……暑いわ。
冷静でいることには自信があったはずなのに、鳴り響く鼓動と収まらない頬のほてりがユリアの心を揺らしていた。
「ユリア、こっちを見て。」
いつもより少し低いユリウスの声が、どこまでも甘く響いてくる。
「きっ…君に出会えて本当に良かった。」
「ユリウスさま」
ユリウスの指先が、触れるか触れないかの位置で頬を上下する。その動きにユリアの肩がピクリと反応した。その動きを感じて、ユリウスはゆっくり息を吐き、意を決した言葉を紡ぐ。
「わたしは君の信じるわたしになりたい。」
見えないはずの瞳から、真っすぐな熱を感じ、ユリアの胸に温かいものが溢れてくる。
トクトクと耳元で鳴り響く鼓動が、まるで早鐘の音のように速度を上げていく。
「あっ、あの……」
言葉に詰まり、真っ赤になっているだろう顔を隠すようにとうとうユリアは俯いてしまった。
大きく息を吐いたユリウスの吐息に、張り詰めていた雰囲気が緩む。
「ユリアを俯かせることができた。わたしも少しは、やるようになったかな?」
冗談めいた口調でそう言うと、ユリウスが柔らかく笑った。
愛のない政略結婚にするつもりはないユリア。
しかし、ユリウスの成長と共に、彼女の彼への想いも着実に育っているようです。
とはいえ、王族の婚姻は、やはり一筋縄ではいきません。
次回、第三話「ユリア、暗殺未遂!ユリウスの覚醒」
二人の絆が、今試される――
お楽しみに!




