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後篇












 はあ……と重い溜息をついて、美しい庭園を見渡す。


 結婚して、この侯爵家の別邸に越してきて五年。

 モニカはお飾りの妻の勤めとして、夫に指示された社交以外では表に出ず、おとなしく暮らしてきた。

 そうしていても、仕方なく参加する夜会や茶会では、愛のない結婚、愛されない妻と見知らぬ誰かに馬鹿にされる。

 だが、夫に無碍にされていても、国内有数の侯爵夫人という威光はちゃんとモニカを守ってくれて……。

 陰湿な視線も陰口も、権威を背負って微笑めば大抵は黙らせられた。

 

 それは、貧乏子爵家の娘だったモニカには酷い愉悦。

 年に数度の機会なら、虚勢を優越感で補強して、優雅で傲慢な侯爵夫人を演じるのは気分が良い。




 そうやって社交界で揉まれた結果、<お飾りの妻>を楽しむ、今のモニカが出来上がったのだ。




 ……まあ私も最初は、あの子のように傷ついていたんたけどね。




 流石に今日のデイジーのような醜態は晒さなかったが、しっかり傷つけられて、お飾りの妻など引き受けるのではなかったと心底後悔し、あと何年この生活が続くのかと陰鬱な気持ちを持ったこともあった。


 助けてくれたのが、この男。


 優雅に紅茶を飲むモニカのすぐそばに直立不動で控える、執事だった。

 本当に執事として優秀なのかどうかは、他に執事という人種を知らないモニカには判らないが……少なくとも彼がいなければ、今のモニカはいなかった。


 モニカのどんな望みも言葉一つで叶える、忠実な男。


 細身で身長は高いが、外見は世間が認める色男ではないと思う。普通という言葉の似合う、平凡な顔立ちだ。けれど、外見などどうでも良くなる程職務に忠実で、一番信用出来る男を見上げ強請る。


「嫌なお茶会とあの子のことで疲れちゃった。お酒とチーズが欲しいわね。あ、その前にお風呂」

「すぐにご用意いたします」


 今日はもう有閑マダムらしく過ごすことにして、エスコートのために差し出された手を掴んで立ち上がる。


 彼との付き合いも五年。

 女主人としての采配など全く知らなかった小娘を助けるため、侯爵家から派遣されてきた彼は、実に忠実にモニカに仕えてくれた。

 与えられた館の差配から、淑女のあり方まで指導してくれて。

 そして、何より……結婚後初めて参加した夜会で、覚悟はしていても向けられた醜悪な悪意に傷つき震えたモニカに真摯に寄り添い、立ち向かい方を教えてくれたのが、この男。






 モニカの、……最愛だ。






 彼にとってそれは、職務故の義務だったのかもしれない。

 けれど、日々モニカを気遣い、モニカを元気づけようと尽くしてくれる彼の振る舞いは、確かに、<モニカ>の心を助けた。


 ……だからだろう? と聞かれたら、否定は出来ない。


 心細いとき、唯一の味方だったから……、だから……。

 彼がそばにいると安心して。

 見つめ合うと胸がざわめく。


 胸に育つ感情を自覚して初めて、人間はたった一つ心の拠り所があれば、どんな場所でも真っ直ぐ立てると知った。


 多分……夫にとっての愛人もこういう存在なのだろう。

 だから彼はどうしても彼女を手放せなかった。どんな手段を使っても、たとえ他人を犠牲にしても、彼女と離れたくなかった。

 その気持ちが今は判る。



 でも……気の毒だが、夫の企みはきっと遠からず破綻する。



 お飾りの妻が辛くないのか?

 夫を本当に愛していないのか?

 真っ直ぐ問いかけたデイジーの強い目がそれを確信させた。


 伯爵も、よりにもよってどうしてデイジーのような女性を、お飾りに選んだのだろう?

 もっと御しやすい娘はいくらでもいただろうに……きっと伯爵には、人を見る目が壊滅的にないのだ。

 でなければ、デイジーを<お飾りの妻>にしようなんて絶対思わない。

 モニカですら判ったのに、夫が彼女の本質に気付けないなんて、伯爵は馬鹿に違いない。



 だって、あのはさっきまで、あんなに傷ついて、泣いていたのに。


 真実に気づいた瞬間。


 即座に立ち直って、即座に立ち向かっていく決意を固めた。



 最後の一瞬で判った。

 デイジーは、甘ったれた幼い貴族令嬢などではない。

 必要な情報さえ与えられたら、それに相応しい対応が即座に計算出来る、賢い子。

 だから、モニカの言葉によって現状を正しく理解させられた彼女が起こす行動は、きっと波乱を厭わないもの。




 最後に彼女が見せた見事な淑女の礼は、その決意の表れだ。




「……ああ、あの子、慰め合いに来たんじゃなかったのね」


 最初から彼女がモニカに欲していたのは、同病相憐れむ仲間ではなく。

 手を取り合って立ち向かう同志だったのかもしれない。


 それは悪いことをしたなぁと、彼女に投げ掛けた言葉を後悔するモニカの隣、モニカの言葉を一つも聞きもらさない男が問う。


「伯爵夫人のことですか?」

「ええ、あの子このまま泣き寝入りなんて絶対にしないわよ」


 そもそもデイジーには、モニカの存在を知って、わざわざ同じ<お飾りの妻>に直接会いに行こうとする行動力、胆力がある。

 あれは、若さ故の勢いなどではない。

 デイジーはモニカとは違う意味で、したたかなのだ。


 だから、モニカのように現状に満足して、いつかそのうち……なんて言葉で、訪れる未来を待ったりしない。




 未来を自分で掴み取ろうとする気概があるひとだ。




 別れたばかりの伯爵夫人を見直して、もっとちゃんと話をすれば良かったかもしれない……と思ったが、すぐに思い直してひらひらと手のひらを振り、余計な思考は振り払う。



 どのみち彼女とモニカの思考は相容れない。どう転んでも、彼女と友達になる未来は描けなかった。



 そんなことよりも、我が身のために、さっき伝えた惚れた男の更なる裏切りが彼女にどう作用するかの方を考えなければならない。

 しかし、どう考えても、破滅的なものしか思い浮かばず……失望が勝手に声になる。


「あーあ、お飾りの妻、凄く楽だったのになぁ」

「ついにおやめになる決意が?」

「ええ、不本意ながらね」


 不満に口を尖らせ言うと、彼は嬉しそうに、そうですか! と笑う。

 その横顔にドキッとした。


 そんな顔しないで欲しい。

 そんな表情を見せられたら期待してしまうから……。


 胸の内でドクドクと脈打つ気持ちを守るため、モニカはエスコートする彼の手からするりと離れて一人で先を歩く。


 今はまだ、この手に全力で縋り付いて良いときではない。

 まだモニカは侯爵の<お飾りの妻>。


 でも、役目を終えたその時に、貴方がそばにいてくれたなら、その時にはちゃんと、言うから……。


 脳内で勝手に上映される妄想を振り払うように早足で歩くモニカに追いついた彼は、酷くスマートな仕草で離れた手をすくい上げ、自分の腕を掴ませる。


「モニカ様、お一人で先に行かないでください」

「勝手知ったる我が家で、随分心配性ね」

「ええ……モニカ様もお一人で行ってしまえる方ですから」


 彼の職務への忠実さをからかったつもりだったのに、嫌に真剣に重ねて言われた言葉。


 ハッとして見上げる男の顔は、いつもと変わらない。

 キリッとした顔で前だけ見ている。


 ……でも、予感が胸を勝手にときめかせた。

 想いの悪い癖だ。モヤモヤと勝手にはみ出してくるものを叱咤して、何でもないことのように話しかける。


「後どのくらいこうしていられるのかしらね」

「……モニカ様次第では?」


 事もなげにいう言葉から、彼も同じ推察をしていると判る。


 なんの権利も権力も与えられていない<お飾りの妻>だったはずなのに、どうやら未来は今モニカの手の中にあるらしい。



 では、どのタイミングで切り出すのが一番効果的だろう?

 そしてその時、果たして夫はどちらを選ぶのだろうか?



 夫に対し、無意識に意地悪く考える自分は、思った以上に彼を恨んでいるらしい。

 今更自覚して、クスクス笑ってしまう。


 その顔はもう嫁いだ頃の若い令嬢のものではなく。

 社交界の荒波を涼しい顔で渡る、老獪な貴婦人のものだった。


「人生何事も経験ねぇ」


 歌うように言ったモニカは愛しい男に手を引かれ、自分の居場所へ戻っていった。






◆◆◆◆◆







 数年後。


 とある伯爵家の若妻が突然、夫伯爵による血統を偽る企みを証拠付きで王家に提出し、それを原因にした結婚無効を求めたことが貴族社会に激震を起こした。


 貴族社会の暗黙の了解、社交界での<噂>でしかなかったものが真実であると詳らかにした彼女は、王家を味方につけて見事に結婚無効を手にすると、これまでの扱いに対する多額の慰謝料を婚家からもぎ取り、意気揚々と実家に戻って、すぐさま他家へ嫁いでいった。


 当然、彼女の淑女らしからぬ行動に眉をひそめる貴族は多くいた。

 暗黙の了解の判らぬ粗忽者、淑女失格と眉をひそめる紳士淑女の集う社交界に堂々と舞い戻った彼女は、しかし、醜聞を揶揄する相手に臆することなく笑顔で言い切った。


『皆様、貴族の体面と仰いますが、貴族として本当に恥ずべきことをしたのが誰か、本当に、お判りになりませんのでしたら、今一度、貴族とは何かについて学ばれたほうがよろしいですわ。

 私の結婚無効は、王家に認められたものなのですから』


 晴れやかに言う彼女が翳した威光はあまりに眩しかった。



 誰がどう思おうと、彼女の行動の正しさは王家によって認められている。



 その事実は、矜恃によって感情を押さえることが美徳とされる貴族社会で、何某かの理不尽を他者に強いるものにも、黙って耐えることに慣れていたものにも衝撃を与え……。

 彼女が舞い戻って以降の社交界では、似たような波乱が起き、幾つかの家が滅びに瀕した。



 そして、人々が彼女の騒動と同時に思い出したのは、同じ時期同じ役目を与えられていた、もう一人の女性の存在。



 ……だが、人々がその存在を思い出したとき、社交界に侯爵夫妻の姿はなく。

 侯爵家は、前侯爵の離婚をきっかけに、ひっそりと従弟夫婦へ代替わりしていた。



 何かの折にその話を教えられた伯爵夫人デイジーは、微かな驚きの後、何処かホッとした表情で夢見るように言ったという。



『人にはそれぞれ、違う考えがありましょう。私は、私が幸せになるためにあんな行動を起こしましたが、あの方にはあの方の幸せの在り方がありました。

 私はそれを、最初にお会いした日に教えていただいた。きっとあの方も、あの方のやり方で幸福になって、今も笑っておられますわ』



 元侯爵夫人モニカのその後の行方は、ようとして知れなかった。













また二人の女性の対比のような話になってしまいました。

同じような話ばかりですみません。


最初は、実はお飾りの妻って楽じゃね? と、若妻を唆す怠惰な夫人の話を書くつもりだったのですが……、随分結末が変わってしまいました。

結末変わっても、モニカは幸せに暮らしています。

侯爵家もモニカのおかげで逃げ切って、夫と愛人もきっと何処かで上手くやってる。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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