中篇
もう泣くことさえなく、やってきた執事に促され席を立ったデイジーは、最後に一度何か言いたげに唇を開いたが……。
結局何も言わぬまま、静かに淑女の礼で頭を下げてモニカの前から去った。
デイジーのそれは、ここ何年か侯爵夫人として社交界にいるモニカから見ても、本当に見事なお辞儀だった。
そんなに長くなかっただろう婚姻までの期間、彼女なりに立派な伯爵夫人になるため、言葉に違わぬ努力をしてきたのだとそれだけで判る。
なのに、彼女の努力を見ない夫や社交界は、真っ直ぐな少女にこれからどれほどの苦難を強いるのか……。
見送りもしないまま彼女が立ち向かわねばならない現実へ意識を飛ばしていたモニカの元へ、忠実な執事が戻ってきて、恭しく頭を下げて告げる。
「お客様がお帰りになりました」
「ありがとう。……ねぇ、おかわりを淹れて」
真面目な顔を見られないようだらしなくテーブルに肘をついて強請ったモニカの前に、すぐさま新しい紅茶が運ばれてくる。流れてくる湯気のかぐわしさにうっとり目を細めながら一口啜り、ああ美味いと唸った。
「美味しい、ありがとう」
「お茶菓子もお取り替えしますので少々お待ちください」
「え、そのままで良いわよ」
「いいえ、嫌な話を聞いてケチの付いた菓子です。きっと味も落ちています」
「……神経質ねぇ」
必要以上にデイジーの行いを忌避する彼の忠実さに笑う。
話している間にお茶菓子が好物のクッキーに変わって、早速それに齧り付いた。甘いかけらが口の中でほろほろと崩れていき、摂取した糖分で滑らかになった口で、ポロッと零す。
「お飾りの妻ってそんなに嫌なものかしら?」
何気なく呟いた言葉に、そばに立つ執事は静かにしかし、しっかり深く首を縦に振って同意した。
「はい、普通はそうでしょう。モニカ様が、少々……潔い方過ぎるのです」
「そう? だって、どうしようもないからこうなのだし、不便はないんだから文句なんてないんだけどなぁ」
「普通の貴族は、……いえ、妻はこの状態に文句を言うのです」
「だって、私も彼女も最初からお飾りの妻になるのは判ってたことじゃない? なのに一旦は受け入れておいて結婚後に文句を言うのは約束が違うわ」
「お飾り具合が想像以上だったのでしょう」
「でも彼女、嫁ぎ先で虐げられているわけでもないし、お金もあるって言ってたわよ」
「正式な妻なのに、妻として表舞台に立つな、は充分屈辱です」
「面倒がなくて良いじゃない」
「モニカ様は少々希有な存在なのです。そこのところをよくご自覚ください」
「普通じゃないってはっきり言ってもよくてよ?」
クスクス笑ったモニカに、彼は苦虫を噛み潰したような顔で応えた。
デイジーに何度も言ったように、モニカは今現在、この<お飾りの妻>生活に非常に満足していた。
定められた少しの社交をこなすだけで、実家への支援とは別に、充分な衣食住と、使い切れないお小遣いが与えられて、時間も腐るほどあるこの生活。
侯爵家の面子を汚しさえしなければ、基本何をしていてもいいし、なんならモニカが愛人を持つことも許されている。ただ、もし婚姻中にモニカに子供が出来ても、侯爵家の籍に入れないなど、多少の制約はあった。
そういう約束事があっての、結婚。
モニカは納得して、お飾りの妻を演じていた。
モニカの夫侯爵には、侯爵位を継ぐ前から、長年の婚約者がいた。
貴族学院は言うに及ばず、社交界でも噂になる程の美男美女の似合いの二人だった。
しかし、二人の結婚直前、婚約者の実家が属する派閥が政争に負けて、その余波で彼女は身分を失った。それまで貴族令嬢だったのに突然平民になって、それではどんなに高貴な血筋と矜恃を持っていても、次期侯爵の妻にはなれない。
それでも彼らは互いを諦めきれなかった。
そして必死に考え策を弄して行き着いたのが、元婚約者を愛人として囲いながら、お飾りの妻を迎えるというもの。
まあ、貴族的にはありきたりと言えばありきたりだ。
ただ彼らの企みは、更に残酷なのものだった。
愛人になるとはいえ、元婚約者の身元は確かなものだし、出来れば跡取りには愛する彼女との子供を据えたい。そのために、企みすべてを黙って飲み込んで利用されてくれる貴族の娘を必要とした。
そして白羽の矢が立ったのが侯爵家の遠縁の、困窮した子爵家の娘だったモニカ。
デイジーに言ったとおり、夫の助けがなければモニカの実家はとっくになくなっていただろう。そんな状態の時にもたらされた契約婚の話に、モニカは渋る家族を飛び越して、飛びついた。
受けない理由が見つからない。このままでは借金のカタに売られる先が、侯爵家なのか娼館なのかの違いだけで、いずれ金で人生を買われるのは同じ。
ならば、お飾りの妻だったとしても、侯爵家の方が絶対にマシだ!!
本当にマシかどうかは賭けだったが、見事モニカは幸運を掴んだ。
幸いだったのは、夫が誠実な人だったことだろう。
彼は結婚に際して事情をすべて詳らかにした上で、金で買うような真似をして申し訳ないと、愛人と一緒にモニカに謝罪した。
実家への援助は当然として、時が来たらモニカにも自由を与えるから、どうか自分たちの身勝手に協力してほしいと、身分も年齢も下の小娘に頭を下げたのだ。
その姿は、もう結婚に夢も希望も失っていたモニカの心すら打って、今確かにある幸せも大事だと思わせた。
自分の家族だけではない、眩しい程切実に愛し合っている夫と愛人が、自分が受け入れるだけで幸せになれるなら、協力したくなった。
幸い当時のモニカにはまだ、引き離されて泣く程恋い焦がれる相手もおらず。いずれ離縁されることも、実家がなくなって家族が離散することに比べればたいしたことではなかった。
自分が<お飾りの妻>になるだけでみんなが幸せになれるなら、良いじゃないか。
そう思って契約婚を受け入れた。
多分、デイジーの方も似た事情のはずだ。
ややこしい話なのが、デイジーの夫の愛人が、モニカの夫の愛人の妹であること。
やはりそちらも元婚約者同士で、伯爵は、モニカの夫を手本に、元婚約者と添い遂げるため、お飾りの妻を迎えることにしたのだろう。
そして選ばれたのが、デイジー。
だから彼女は、モニカに接触した。
没落貴族の姉妹に夫を奪われた夫人同士、傷を舐め合うつもりだったのではないだろうか?
しかし、残念ながらモニカにはデイジーの気持ちは判らない。最初からお飾りの妻である自分を受け入れて嫁いできたのだ、夫には、愛情どころか、少しの期待もしていない。
多分、デイジーの夫には、誠実さと共にある冷酷さが足りなかったのではないだろうか?
夫である侯爵が宿す、人としての冷酷さ。
それを思い出して、モニカは眉間に皺を寄せた。
彼は、今正に一人の女の人生を犠牲にしようとしながら、その相手を前に、たった一人の女だけを愛し、彼女だけを幸福にしたいと平気で言える人間だった。
その残酷さに気付いたのは迂闊にも嫁いだ後。まだ物語に憧れる年頃だったモニカは、尊い愛の手助けが出来る自分を誇らしくさえ思っていたから、真実に気付いたときは本当に絶望して、少し泣いた。
まだ子供だったわねぇ……と昔の自分を懐かしむ。
よく考えれば、こんな面倒くさい方法をとらなくても、彼と愛人が添い遂げる方法などいくらでもあった。
例えば、さっさと後継の座は誰かに譲って、その代わりに、生活の保証を受けて領地の隅で彼女と慎ましく暮らすとか……いくらでもやりようはあったのに、彼はそうしなかった。
彼は、真実の愛を大切に思いながらも、生まれ育った身分と、それに付随する恩恵を手放すのは嫌だったのだ。
でも結局、二兎追うものは一兎をも得ずという。彼は後に思い知ることになるのではないだろうか?
こんな真似をして愛する人との仮初めの幸福を手に入れても、それは一時のことだと……。
現在、モニカを妻にしたことで侯爵家の体面は保たれている。跡継ぎ足る息子もいつのまにか生まれたと言うし、後は、時期を見てお飾りの妻を離縁するだけで、彼の理想は実現される。
……だが問題は、それを周囲も知っていると言うことだ。
さっきデイジーに指摘されたとき、肝が冷えた。
社交界にデビューしたての小娘が知っている程に、侯爵家の醜聞は周知の事実になっているという。
正直驚いた、もっと秘密裏に事を運んでいると思っていたのに、まさかそこまで夫は馬鹿だったのかと……。
男としては愚かでも、人として、否、侯爵としてはもっと出来る人物なのかと思っていたが、違うの?
モニカと彼の結婚は、貴族の娘を妻に迎えて後継を産ませることで、家は繋ぐ。
ただ、それとは別に、愛は元婚約者である愛人だけに捧ぐ……という、体面を保つための結婚のはずだ。
……なのに、後継が愛人の子であることがばれていては意味がないではないか!!
いつの間にか生まれていた息子は既にモニカの子供として届けられている。
なのに、顔を見たこともない、名目上モニカの子供が、実際は愛人の子ということが最初から周囲にばれていたら、ここまでした意味がない。
いくら愛人が元貴族令嬢でも現在は平民で、しかも彼女は政争に負けて取り潰された家の娘なのだ。
その家の血を引く子を、偽ってまで後継に据える危険が判っているから、こんなに面倒くさい真似をしているとモニカですら思っていたのに。
まさか、彼は<愛>と<身分>を手に入れるために表面を取り繕っただけ?
当主の覚悟がその程度では、この平穏な生活もあまり長くはないかもしれない。
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