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前篇














「私たちは最初からお飾りの妻でしょう?」



 そんな言葉を伯爵夫人デイジーに平然と放ったのは、彼女の対面に座る侯爵夫人モニカだった。


 あまりに穏やかな声に吃驚して、デイジーは泣いていたのも忘れ、真っ直ぐモニカの目を見つめてしまう。澄んだ茶色の目は、嘲りも哀れみもなくこちらを見ていて、本心から、彼女がそう言っているのを感じた。


 ぽとりとデイジーの頬を滑った雫がスカートに、また一つシミを作る。


「なので……、デイジー様が何をそんなに悲しんでいらっしゃるのか、私は本当に判らないのです」


 ごめんなさいね、と謝って、モニカは少し冷めた紅茶に口をつけた。


 ここはモニカの家の庭園。

 二人は先程まで別の貴族の家の茶会に招かれていた。


 デイジーはその席で他の夫人と揉め事を起こしてしまい、失意のまま退席しようとしたところをモニカに引き留められ、こうして二人でお茶を飲み直している。



 揉め事の原因になったのが、……今、モニカの零した言葉。



 デイジーは元は子爵家の令嬢で、数ヶ月前にとある伯爵家の当主に嫁いだ。

 ……だが、夫には最愛と公言している長年の愛人があり、新婚生活が始まる前から破綻した状態なのは、周知の事実。

 それでも、縁あって嫁いだ以上、デイジーは彼と夫婦になることを諦めていなかった。


 所詮愛人はどうあがこうと愛人、正式な妻は自分。

 貴族として尊重すべきものが何か、いつか夫にも判る。


 そう信じて努力していたデイジーを嘲笑うように、今日集まった夫人たちは二人の結婚事情についてあけすけな言葉で問い詰めてきて、……堪えきれずに泣いてしまった。

 成人した淑女としては情けないことこの上ない醜態だ。

 当然彼女たちは仕打ちは酷い。味方のいない状態でも、慣れない社交を必死にこなそうとしている若い娘の出鼻をわざわざ挫かんと、親切に見せかけた悪意を容赦なく浴びせかけ、追い詰め泣かせたのだ。

 しかし、明日以降同じような茶会で話題にされるのは、公の場で泣いてしまったデイジーを嘲る言葉ばかりだろう。



 醜いが、社交界とは、女の世界とは、そういうもの。



 更に悪いことに、現場にモニカが居合わせた。無関係なのに、デイジーの話に併せて、モニカのことも社交界で思い出されるに違いない。


 ……判っているから、モニカはデイジーを呼び止め、こうしてアフタフォローのお茶を一緒に飲んでいる。

 静かにカップに口をつけるモニカに、デイジーは勇気を振り絞って問いかけた。


「モニカ様はお辛くないのですか?」

「どういう意味でしょう」

「社交界ではお飾りの妻と侮られ、旦那様は愛人にかまけて家に戻らない。挙げ句の果てに、あちらの方が産んだ子を跡取りに据えなければならないことが辛くは……」

「まあ! 我が家の事情をよくご存じね。私の前でそこまではっきり口にした方は貴女が初めてでしてよ」


 真っ直ぐ目を見据えて笑顔で言えば、今更デイジーは顔色を悪くした。

 そうだろうな、とは思っていたが、やはりこの伯爵夫人は、その話をモニカとしたくて今日の茶会に参加したのだろう。


 居合わせたことは、偶然ではなかった。


 確信を得て、モニカの笑みが消える。

 実際は、接触する前に意地悪なおばさまたちに捕まって、挨拶も交わせず退席することになったが……そのおかげでこうして差しで話す機会を得られたことは、彼女にとっては行幸なのかもしれない。


 デイジーは、モニカと自分の境遇について語り合いたいのだろう。

 ……でも、その考えは捨ててもらわなければならない。


 だからモニカは、毅然と、もう一度言った。


「お飾りの妻の何が悪いのかしら?」

「何、とは……? ですから、仮にも私たちは神の御前で結婚を誓った、夫婦なのに」

「神の御前で誓ったと言っても、そもそも本人たちにその気がなかったなら空っぽの誓い。そんなものになんの意味が? 仮初めの誓いに比べたら、長年一緒にいる夫と愛人の方が余程、じつがありましてよ」

「嫌ではないのですか?」

「どうして嫌なのですか?」


 質問に質問を返されてデイジーがムッとしているのが判る。

 気付けば涙はとうに乾いていて、これでやっと話が出来ると、モニカはカップをテーブルに戻した。


「デイジー様、確かに私たちの境遇は似ているでしょう。ですが、先程も申し上げた通り、私は自分がお飾りの妻であることを受け入れています。従って、貴女とお友達になって傷を舐め合う必要はないのです。

 貴女も、今日と同じような目に遭いたくなければ、しばらく社交界から遠ざかった方がよろしいですよ」

「……貴女も、私を馬鹿にするのですね」


 傷ついた顔をしてまた目尻に涙を溜める少女を見やり、モニカは堪えるのをやめて、思いっきり溜息をついた。

 失望混じりの大きな吐息にデイジーの肩がビクリと震え、しかし、不満そうに唇を噛んで俯く。


 その表情を見て、……ああ、これは駄目だと確信した。


 この顔をあっさり他人に晒すようでは、彼女はまた次回も同じ失敗をする。否、この先何度でも、暇な貴婦人たちの餌食にされ、その度子鹿のように震えて泣くだのだろう。

 今のうちにその愚かさを教えてやらなければという気持ちと、どうしてそんなことを自分がしてやらなければならないのかという気持ちがない交ぜになったまま、モニカは溜息と共に、侯爵夫人の仮面を外した。


「はぁ……あのね、貴女ちゃんと私の話聞いてた? 馬鹿にしてるんじゃなくて、考え方が違うから合わないと言ってるのよ!」


 モニカの蓮っ葉な言葉と言葉尻に被せて、ダン! とテーブルの端を叩かれたことに、デイジーは無意識に身体を縮こまらせた。


「私はお飾りの妻に満足してるの。よく知りもしない男と夫婦ごっこなんかしたくないし、子供を作るためだけに抱かれるなんてとんでもない。その辺全部愛人が引き受けてくれた上に、私は大した社交も家政もせずに、お金と時間は自由に出来る。最高じゃない!!」


 最初はモニカの豹変と大きな声に驚き怯えていたデイジーも、しかし、話の内容を理解するにつれ、また顔いっぱいに不満を広げた。

 モニカが息継ぎする合間を捕らえて反論する。


「モニカ様は、旦那様に愛されたいと思わないのですか?」

「思わないって何回言わせるのよ!! 私の話ちゃんと聞いてた?」

「夫婦なのに!」

「だから何? 所詮、契約婚よ。私は今の生活に満足してる、自分の家庭に不満があるからって私を巻き込まないで」

「でも、だって、折角夫婦になったのに」

「契約として、でしょう。それなのに愛してほしいなんて、あちらからしても図々しい要求よ」

「でもっ……」

「ああ、もう! 貴女の事情は知らないけど、私はね、実家の借金の肩代わりを夫がすることを条件に嫁いだの。つまり、お飾りの妻としてお金で買われた。だから私には、彼の望む妻でいる義務があるのよ、お判り?」

「なんてこと、……お可哀想に」


 今までひたすら自分を哀れんで泣いていた女から、あからさまに憐憫を向けられて、モニカはもう一度テーブルの隅を叩いた。


「可哀想で結構! そっちだってどうせ似たような事情でしょう?」

「っ……」

「そもそも貴女、結婚するとき条件はちゃんと確認した? それとも、知った上で、結婚してしまえば変わるなんて思った? 甘いわ、大甘よ!! あちらは、結婚後に文句を言わせないために、わざわざ持参金もろくに出せない名ばかり貴族の娘を選んだの。それなのに、教会で紙に署名しただけで突然全部が変わるなんて都合が良いこと起こるわけないじゃない! 貴女馬鹿なの?」


 溜まっていた鬱憤を全部ぶちまけて、フーッと雄牛のように息をついたモニカはどうだと言わんばかりの視線をデイジーに向ける。

 言われるがまま、赤くなったり青くなったりしながら、口をパクパクさせていたデイジーは、やがて感情が許容量を越えたのだろう。そのままテーブルに突っ伏すと、今度は声を上げて大泣きを始めた。


「そんなっ、酷いこと、言わなくても、だって、だってっ……私、」


 子供のように泣きじゃくり始めたデイジーを見て、はぁぁとはしたない溜息をついたモニカは、それもまたはしたなく自分の額を手のひらで叩く。


 しまった、子供相手にやり過ぎた。

 伯爵夫人と言っても、デイジーはまだ成人したばかり。

 そんな子供相手に貴族の結婚の清濁を真正面から説いてしまった。


 自分に出来るからと言って、他人にそれを強要するつもりはなかったのに……。


 これでは、さっき彼女を虐めて泣かせたおばさまたちとやっていることは変わらない。面白半分ではあっただろうが、彼女たちもまた、今モニカが言ったのと同じことをデイジーに教えただけなのだ。


 お飾りならそれらしくしていろ。しゃしゃり出れば無用に打たれるぞ、と。


 その反応次第で、彼女たちはデイジーとの今後の付き合い方を計ろうとした。

 そして彼女は対応を誤った。相手をいなすことも反論することも出来ずに、ただ泣いて逃げたのだ。お飾りとしても不合格とされた彼女が今後も社交界に居座れば、もっと辛い目に遭う。

 それこそ、無意味な、憂さ晴らしや愉悦のための嫌がらせをうけるだろう。

 可哀想だと思うが、やっぱりどうしてそれを自分がわざわざ教えてやらなければいけないのか……。


 渋い顔をしたモニカは、行儀悪く足を組むと、身体を斜めにしてテーブルに肘を突き、デイジーから顔を逸らした。

 その途端、近くに控えていた執事とばっちり目が合う。怖い顔でこちらを睨んでいる彼は、明らかに怒っていた。


 あ……と今更存在を思い出して後悔してももう遅い。

 すべての会話を聞かれてしまった。


 失敗したと思い、一応虫などを追い払う仕草で離れるよう指示したが、彼は黙って首を横に振る。

 主の命令を断るって何事よ!! と思う気持ちを抱えても、声を荒げて追い払うわけにもいかない。

 何事も思い通りにいかないイライラにモニカの眉間に深い皺が刻まれた。


 それから、わーわーと泣き声を上げ続けるデイジーを眺める時間がどれくらい経っただろう、やっと泣き声が小さくなってきた。

 グスグスしゃくり上げる呼吸に合わせるように、静かに問う。


「ねぇ、この際だから聞くけど、そもそも貴女、伯爵夫人としての社交はしなくていいと言われてないの?」

「……言われ、ました」

「どうして従わないの?」

「だって! 私が妻なのに!!」

「そう名乗りたいなら夫の動向にもっと注意を払いなさい」

「えっ……」


 指摘が余程予想外だったのか、デイジーは即座に伏せていた顔を持ち上げる。涙と鼻水に汚れた顔が可哀想で、見ないようにハンカチを差し出しながら続けた。


「そもそも貴女、伯爵様が社交界で妻のことをなんて言っているか知っていて?」

「……いいえ」

「政略のために仕方なく娶ったけど、やはり子爵令嬢。甘ったれで、拙くて、とても伯爵夫人としての社交などさせられないって、わざわざ本人が広めてるわ」

「……え?」

「貴女の評判は既に最悪。なのに、嫌味を言われにわざわざお茶会や夜会に行くなんて馬鹿らしくならない?」

「そんな……でもっ、私、ちゃんと努力して」

「無駄よ」


 ぴしゃりと投げつけると、初めてデイジーの顔に不満ではない何かの感情が広がった。


「貴女の努力なんて全部無駄。貴女の旦那様が欲しかったのは、名目上の妻で、貴女じゃない。同じ条件が飲めるなら貴女でなくても良かった。貴女の努力なんて、彼は求めてないの」


 そこまではっきりとは誰も言わなかったろう事実。

 でも、事実は事実だ。

 察しろと何度促しても受け入れないなら、突きつけるしかないではないか。

 そう自己弁護して続ける。


「お飾りの妻なんだから、無駄なことはせずに館に引きこもって好きなことだけしてなさいよ。その格好から想像するに、嫁ぎ先で虐められたり、予算を与えられていないわけじゃないんでしょ?」

「……ええ」

「じゃあ何が不満? 私なら社交をしなくて良いと言われたら、喜んで引きこもって自分のために好きなことをするわ」

「……だって、私が妻、なのに」

「……どうしてもそこに拘るのねぇ」


 理解不能だわ。と零したが、その時モニカはやっと気付いた。


 モニカにとって夫は<お飾りの妻>と同じ<名目上の夫>に過ぎない存在だが、デイジーにとっては違うのかもしれない。


 もしかしたら彼女は……。


「貴女、もしかして旦那様のことが好きなの?」


 ひゅっと息を呑む音がして、啜り泣きが止まる。

 ……どうやら図星だ。

 もう一度モニカは額に手を当てた。


 よりにもよって契約婚の、利用だけするつもりの相手を惚れさせるなんて……彼女の夫は鬼畜か何かだろうか。


「……モニカ様は、本当に旦那様を愛してないのですか?」

「さっきまでの話を聞いて、私が夫を男として好きだと思う? お金だけの関係よ」

「そんな……」

「お可哀想はもう結構。充分判ったでしょう? 貴女と私は違う。貴女とお友達になって傷を舐め合うなんて私はしないから、他を当たってちょうだい」


 冷たく言って、モニカはひらひらと手を振りながら、椅子に座り直した。


 これはもう手に負えない。

 彼女の求める何も、モニカには与えようがない。


 一瞬で切り捨てる判断をして背筋を伸ばすと、モニカは貴族夫人らしい薄笑みを浮かべなおした。


「私は愛人についても跡取りについても、すべて旦那様のご意志に従います。デイジー様と私では夫婦の考え方が随分違うようですね。申し訳ありませんが、今後のお付き合いはご遠慮いたしますわ」





 鉄壁の笑顔できっぱり拒否して、手元のベルを鳴らした。












読んでいただきありがとうございました。

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