50 月明りの下の交渉
理事長は椅子に腰かけ、ゆっくりと視線を俺に向ける。
その瞳は、まるで俺の中を深く覗き込むかのように鋭く、しかしどこか温かみもあった。
「藤條悠太君、こうして落ち着いて話すのは初めてだね」
低く静かな声。だが、その重みは確かに心に響いた。
俺は軽く頭を下げ、答える。
「はい、よろしくお願いします」
理事長はゆっくりと息をつき、慎重に言葉を選ぶように話し始めた。
「新しい環境にはまだ馴染めていないかもしれないね」
「多少は戸惑いもあります。ですが、ここには少しずつ慣れてきました」
声にはほんの少しの緊張が混じっていた。
理事長の顔にわずかな笑みが浮かび、続ける。
「それを聞いて安心したよ。だが、君には我々が期待する以上の何かがある。君の力が、この学校の未来に大きく関わってくると聞いている」
俺の胸の奥がざわついた。
「そんなことは…」と、口を開きかけた瞬間、
視界が急激に揺らぎ、耳元でかすかな風の音が響く。
その次の瞬間、部屋の天井も壁も消え失せ、目の前に見知らぬ光景が広がった
部屋の天井も壁も消え去り、目の前に広がったのは薄暗い霧の立ち込める森だった。そこに月明りが差しており、幻想的な風景を作り出している。
冷たい空気が肌を刺し、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
「ここは…どこだ?」
戸惑いの声をあげると、霧の中から静かに一人の男が現れた。
その男は白く長いコートを纏い、蒼く輝く瞳が不思議なほど落ち着いている。彼の持つ医療器具のような細工が所々に見え、その存在感はただ者ではないことを示していた。
「私は蒼月の医者。月華七聖人の一人だ」
その言葉に驚きはしたが、敵意は感じられなかった。むしろ穏やかで、こちらに敵対するつもりはなさそうだ。
「ここは僕の作り出した異空間だ。話したいことがある」
男は静かに話し始めた。
「我々は月の王を討伐するために動いている。君にも協力をお願いしたい」
その言葉に、俺は警戒しつつも問い返した。
「なぜ俺に?」
蒼月の医者はゆっくりと頷き、続けた。
「君のその力は特異な存在だ。討伐に必要な力となりうる」
そして、次に告げられたのは依頼の報酬についてだった。
「君の配下であった剣聖セリシアの治療をしてあげよう。彼女は現在、危険な状態にある」
俺は眉をひそめ、驚きを隠せなかった。だが、蒼月の医者のその言葉に嘘は感じない。
蒼月の医者は少しだけ表情を曇らせて言う。
「君にとって、悪い話じゃない思うよ。かぐやを月の王から守れるし、瀕死のセリシアも救える」
俺は胸の奥でざわめきを感じた。
「わかった。協力する。ただし、その前に詳しく話を聞かせてくれ」
蒼月の医者は静かに頷き、霧の向こうへ視線を向けた。
「それでは、詳細はこれから伝えよう。君に委ねられた運命だ」
細かな詳細が伝えられ、俺たちの周囲の霧がわずかに揺れ、再び視界がぼやけていった。
気づくと、学校の面談室の前に立っていた。扉は半開きで、静かな時間が待っている。
「行こう、悠太君」
理事長の声はどこか遠くで響いた。
俺は深呼吸をして、重い扉を押し開けた。
「理事長は、何者なんですか?」
「それは言えないな。まあ、少々武術は心得ているとでも言っておこうか」
理事長の謎は深まるばかりだ。
扉の向こうに広がっていたのは、学校の廊下ではなく、少しぼろくて古びた家の内部だった。壁は色あせ、木の床はところどころ軋み、窓から差し込む光も薄暗く、どこか寂しげな空気が漂っている。
「ここは…?」
俺が戸惑いながら呟くと、蒼月の医者は静かに答えた。
「この家は、月の王の過去を語る場所だ。ここで語られる話が、君の運命を紐解く鍵となるだろう」
その言葉に促され、俺は身を引き締めて耳を傾けた。
医者は深く息を吸い込み、ゆっくりと語り始める。
「昔々、月には一人の王がいた。彼は圧倒的な力を持ち、不老不死の秘術でその命を永遠に保ちながら、月を支配していた」
「その力は強大で、月華七聖人と呼ばれた七人の聖者たちさえも恐れを抱かせた。彼らは王に仕える者もいれば、反旗を翻した者もいた」
「実は、その七聖人の中で敵対関係となった者たちも少なくなかった。彼らは王の暴走を止めるため、時に激しく争った」
医者の瞳がどこか寂しげに揺れた。
「蒼月の医者――私がその一人だ。私たちは王を討つために結束しなければならなかったが、互いの思想の違いから何度も衝突を繰り返した。だが、結果的には王の暴走があまりにも凄まじく、最終的に討伐のために力を合わせざるを得なかったのだ」
「王は力を乱用し、月と地上の均衡を崩し始めた。人々は圧政に苦しみ、希望を失いかけていた」
「月華七聖人の争いは内部分裂を生んだが、それでも力を合わせて戦い、王を封印した」
「しかしその封印は完全なものではなかった。王の不死の力のかけらは地上に散り、今もなお、世界のどこかでその力が息づいている」
「そして、君が持つ蓬莱の力も、その一滴に過ぎない。だからこそ、再び目覚める危険がある」
俺は息を呑んだ。
「つまり、王は完全に滅ぼされたわけではないということか?」
医者は軽く頷く。
「そうだ。だから私たちは再び討伐を急いでいる」
「そして、君の剣聖セリシアの命も、この戦いに深く関わっている。彼女の存在は、今後の鍵となるだろう」
俺は重く胸の内を締めつけられるのを感じた。
「これはただの戦いではない。世界の均衡を賭けた争いだ。君はその中心にいる」
医者の声が、重く響いた。
「準備はできているか?」
俺は拳を握りしめ、静かに答えた。
「……やらなければならないことはわかった」
その瞬間、ぼろ家の壁がゆっくりと消え去り、意識が現実へと引き戻されていく。
目を開けると、いつもの面談室の前に立っていた。
医者の静かな声が耳に残る。
「行こう、悠太君」
俺は決意を胸に、面談室の扉を押し開けた。




