48 眩しい朝
翌朝――。
まだ眠気の残る瞼をこすりながら階段を降りると、ふわりと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。朝食の匂い……だが、それはいつもよりほんの少し、違う香りが混ざっていた。
「おはよう、ノエル。よく眠れた?」
キッチンから母の声。けれど、その声の後ろから、もうひとつ、控えめな声が続いた。
「……おはようございます」
その声を聞いた瞬間、目が完全に覚めた。
「……え?」
俺はダイニングに視線を向ける。
そこには、エプロンをつけた鈴花が立っていた。
「す、鈴花……?」
「……はい」
鈴花はいつもの制服の上から、我が家の白いエプロンをきちんと結び、手には菜箸を握っていた。その頬にはうっすらと照れたような赤みが差している。
「今朝はね、鈴花ちゃんが“朝ごはん作ってみたい”って言ってくれてね。私がちょっと教えてたの」
母がにこにこと言う。なるほど、それでこのいつもと違う香りか。
「……そうだったのか。でも、なんで急に?」
俺が問いかけると、鈴花は一瞬視線をそらし、そして小さく答えた。
「……前から、一度、作ってみたかったんです。師匠に……ごはん」
心臓がひとつ跳ねた。
「お、おう……」
なんて返せばいいのか分からず、思わず冷蔵庫に手をかけて誤魔化す俺をよそに、母は楽しそうに笑っている。
「ふふ、鈴花ちゃん、今朝はすごく頑張ってくれたのよ。卵焼きも、味噌汁も、全部ちゃんと作ったの。ね?」
「……はい。でも、まだまだ、です」
鈴花はそう言って、少しだけ目を伏せた。
食卓には、丁寧に焼かれた卵焼きと、湯気の立つ味噌汁、そして香ばしい焼き鮭が並んでいた。見た目だけでも、しっかりと手間がかけられているのが分かる。
「いただきます」
箸を手に取り、卵焼きを一口。
――優しい甘さが口に広がった。少しだけ形は不揃いだけれど、それもまた、手作りの良さというものだろう。
「……うまい」
俺がぽつりと言うと、鈴花の肩がわずかに動いた。顔を上げた彼女は、はにかむように笑っていた。
「……よかった」
朝の光が、カーテン越しにテーブルを照らす。その柔らかな光の中で、彼女の表情がどこか誇らしげに見えた。
「ねえ、ノエル。今日は鈴花ちゃんも一緒に登校していい?」
母の提案に、俺が返事をする前に、鈴花が小さく頷いた。
「……よろしければ」
「お、おう。もちろんいいけど……」
なんだろう、少しだけ、調子が狂う。
いつもなら無言で並んで歩くだけの道が、今日はなぜか妙に意識してしまいそうだ。
けれど――
登校の支度を整え、玄関で靴を履きながら、俺はちらりと鈴花を見る。
彼女は変わらず無口で、けれどその瞳はどこかいつもより明るく見えた。
「……行くか」
「はい」
俺たちは並んで、家を出た。
まだ冷たい朝の空気の中、歩く足音がふたつ、並んで響く。
その音が、やけに心地よかった。
朝の通学路は、冬の空気がまだ張りつめていた。アスファルトの上を歩く足音が、カツン、カツンと控えめに響いていく。
「……寒いですね」
隣を歩く鈴花が、マフラーの奥からぽつりと呟いた。吐息が白く揺れ、朝の光の中に溶けていく。
「だな。けど、もうすぐ三学期も終わりだし。寒いのもあと少しってとこだろ」
そう言いながらポケットに手を入れて歩く。鈴花はうんと頷きながらも、その手元をちらりと見ていた。俺は思わず目を逸らして、前を見る。
そして、そのとき――
「おーい、ノエルー!」
遠くから聞き慣れた声が飛んできた。
声の主は、赤いマフラーを風になびかせながら走ってくるかぐやだった。制服の上から白いコートを羽織り、いつものように元気いっぱいな笑顔を浮かべている。
「珍しいわね。朝から女の子と一緒だなんて」
かぐやは立ち止まると、俺の顔を見て、次に鈴花をじっと見つめた。鋭くも意地悪さのないその視線に、鈴花は少し肩をすくめる。
「……おはようございます、かぐや先輩」
「おはよう、鈴花ちゃん。ふふ、なんだか良い朝って感じ」
「そ、そうか?」
俺が口を挟むと、かぐやはニヤニヤと笑いながら、俺の肘を軽く突いた。
「で? 二人で登校って、どういうわけ?」
「いや、朝メシ作ってくれてさ。その流れで」
「へぇ~……なるほどぉ~?」
かぐやは声を引っ張りながら、意味深に俺と鈴花の顔を見比べた。鈴花は少しだけ顔を伏せて、静かに歩き出す。
「……あの、先に行きますね」
「お、おう」
彼女は少し早足で、前方へと歩き出した。俺とかぐやは、自然とその背中を追うように歩きながら、少しだけ距離を取る形になる。
「ねぇ」
かぐやが小声で話しかけてきた。
「……あんた、最近ちょっと変わった?」
「変わった?」
「うん。なんか、顔つき? 前より柔らかいっていうか」
俺はその言葉に一瞬詰まったが、肩をすくめてごまかす。
「……そりゃ、お前らと色々あったからな。自然と変わるだろ」
「ふーん」
かぐやは少しだけ微笑んで、前を歩く鈴花の背中に目を向けた。
「鈴花ちゃんも、ちょっとずつ表情が増えてきたよね」
「ああ……たしかに」
今朝の笑顔が脳裏に浮かぶ。料理を褒めたときの、あのほんの小さな笑み――けれど、それは確かにあたたかかった。
「ま、なにがあっても。私は私で、負ける気ないけど」
かぐやは冗談めかしてウインクしてくる。
「勝負じゃねぇって」
「ふふ、そういうことにしておいてあげるわ」
そして、俺たちは鈴花に追いついた。三人の足音が、朝の通学路にリズムを刻む。
特別な言葉はなかったけれど、それぞれの胸に、どこか穏やかな気持ちが流れていた。




