46 決着
10対10。デュース。
卓球台の上で、白い球が静かに跳ね返るような幻影が見えるほど、空気は張り詰めていた。
イザベルのサーブ権。
彼は少しだけラケットを寝かせ、指先で軽くボールを持ち上げる。
その目は冗談一つない、真剣そのものだった。
彼の金色の髪が天井の照明を弾き、汗が頬を伝い落ちる。
「――行くぞ」
静かな声と同時に、ボールがふわりと宙を舞い、鋭く振り抜かれたラケットがスピンを乗せてそれを叩いた。
低く、鋭く、まるで弾丸のように飛んできたサーブ。
俺は即座に反応し、ラケットを前に出す。
スピンを殺し、滑らせるように返球する。
だが、その一撃は次の強打への布石だった。
イザベルは少し前へ詰めてきていた。
「甘い!」
豪快なスマッシュ。
真正面からの直線軌道――!
瞬間、俺は踏み込み、体勢を斜めに崩して逆方向へとラケットを伸ばす。
ラケットの端にわずかに触れた白球は、高く舞い上がり、回転しながらイザベルのコート奥へ落ちた。
――点、入った。
「11対10。ノエル!」
審判の声と同時に、観客席からざわつきが起きた。
次、俺が取れば――決着だ。
イザベルは軽く息を吐き、ラケットを握り直す。
「よく返したな……本当に、ギリギリだったぞ」
「お前が本気で打ってくるなら、それを受け止めるのが礼儀ってもんだろ」
そう言っても、息は上がっているし、右腕は痺れている。
だが、今この瞬間のために、俺はここまで上がってきた。
最後のサーブ。
俺はボールを掌の上に乗せる。
ラケットの角度を一度調整し、指先の力を抜いて、ふわりとボールを浮かせた。
そして、振り抜く。
回転をかけすぎず、スピードも控えめに。狙うは、前のラインぎりぎり。
イザベルの意識を揺らがせる一球――!
彼の目が鋭く細められた。
次の瞬間、彼の身体が滑るように動き、ラケットが振り下ろされる。
――しかし、その刹那。
スリップするように落ちた球は、イザベルのラケットの下をかすめ、白線ぎりぎりのところで二度目のバウンドをした。
審判の手が挙がる。
「ゲームセット! 12対10で……ノエルの勝利!」
静寂が破られ、体育館が拍手と歓声に包まれた。
俺はラケットをゆっくりと下ろし、汗だくの額を袖で拭った。
鼓動がうるさいほど響いている。
それでも、どこかすがすがしい風が、胸を通り抜けていった。
「……お前、やっぱり強いな」
イザベルが小さく笑いながら、ラケットを持ったまま手を差し出してきた。
「俺の知ってる人間の中で、一番強いよ」
「……同じことを返すよ。お前が相手だったから、ここまで来れた」
互いの手が、しっかりと握られる。
全力を尽くした勝負のあとにあるのは、ただの勝敗ではなかった。
そこにあるのは、言葉にしなくても分かる、理解と尊敬と――誇りだった。
***
体育館の壁際に設けられた観客席に腰を下ろすと、ちょうどバレーボールの決勝戦が始まろうとしていた。
コートの左右に並ぶのは、各学年を勝ち上がってきた代表チーム。
左側のチームに、俺たちのクラスからかぐやの姿がある。
長い黒髪を後ろでまとめ、真剣な表情でネット越しの相手を睨んでいる。
そして、右側のチーム。
そこには、淡い水色のショートカットが特徴的な少女――鈴花の姿があった。
彼女は学年こそ一つ下だが、実力では誰にも引けを取らない。
「おいおい、あれって鈴花じゃないか?」
イザベルが俺の隣で指差す。俺は頷いた。
「ああ、まさか決勝戦であたるとはな……」
「おもしれぇ展開になってきたな」
開始のホイッスルが鳴る。
先攻は、かぐや側のチーム。
サーブが高く打ち上げられ、回転しながら鈴花のコートへと落ちていく。
鈴花はそれを一歩も動かず、正確に腕でレシーブした。
音ひとつ立てず、まるで静かな湖面に石を落としたような、繊細で無駄のない動きだった。
「あいつ、相変わらず丁寧なプレーするな」
「でも、丁寧なだけじゃない。返すだけじゃないぞ」
その通りだった。
ボールはセッターに送られ、すぐにトス。
次の瞬間、鈴花は助走を取って、ネット前で高く跳び上がった。
その小柄な身体とは思えない滞空力から繰り出されたスパイクは、一直線に相手のコートへ突き刺さった。
「ナイスアタック、鈴花!」
彼女のチームメイトが歓声を上げるも、鈴花本人は特に表情を変えず、静かにポジションへ戻っていく。
ただ、わずかに紅潮した頬と、指先のわずかな震えが、彼女の内にある熱を語っていた。
一方のかぐやも黙ってはいない。
「ふふっ。今のは認めてあげるわ。でも次は止める」
目を細めながら、前線へと移動するかぐや。
次のラリー。
互いにボールを譲らず、ラリーが続く。
コートを飛び交う白球。
床に這いつくばるようなレシーブに、フェイントを交えたトス。
観客の歓声がだんだんと大きくなり、周囲の熱気が増していくのがわかる。
そして迎えた中盤――
鈴花がふたたびネット前で飛んだ。
しかし今回は、タイミングを読んだかぐやがその真正面に飛び上がる。
「読めてるわ、鈴花ッ!」
かぐやの両手が、鋭いスパイクを正確に受け止めた。
ブロックが炸裂する――!
「ナイスブロック!」
観客から歓声が上がる。
ネット越しに、無表情の鈴花とかぐやが睨み合う。
言葉はないが、互いに全力でぶつかっていることが伝わる。
「これ……本気でどっちが勝つか分からないな」
イザベルの声に、俺は小さく頷く。
まるで二人の感情そのものがボールを通してぶつかり合っているようだった。
寡黙で繊細な鈴花と、情熱を秘めたかぐや。
静と動の対決。
この勝負、目を離すことはできない――。
試合は終盤に差し掛かり、点数は互いに譲らず、18対18。
天井の照明が強く輝き、コートの中央に影を落とす中、選手たちの息遣いが体育館中に響いていた。
どちらのチームも限界に近く、動きに疲れが見え始めている。
それでも、鈴花は一切顔に出さなかった。
いつも通り、感情を殺したまま、淡々と動き続ける。
だがその目だけは、研ぎ澄まされた刃のように鋭く光っていた。
「レフト、来る!」
かぐやが叫んだ次の瞬間、鋭いトスが鈴花のもとに送られた。
そのままスパイク――と思わせて、彼女はぎりぎりのタイミングで軌道をずらし、フェイントを仕掛けた。
その読みの深さに一瞬、かぐやのチームのブロックが遅れる。
が、そこへ飛び込んできたのは――かぐや本人だった。
「甘いわよ!」
膝を擦りながら飛び込んだレシーブは、見事にボールを拾い上げる。
会場がどよめいた。
スパイクも、フェイントも、ただの応酬じゃない。互いに相手の呼吸を読み合い、魂で応えている。
そして、かぐやのチームが次の攻撃に繋げる。
センターに上がったトス。
今度は、かぐや自身が飛んだ。
「……っ!」
鈴花もそれを読んで、素早くブロックに跳び上がる。
ネットの上、わずか十数センチの空間で、二人の手が交差する。
かぐやの目が鋭く輝いた。
「――今よ!」
彼女は手首を返し、スパイクのコースをギリギリで変えた。
鈴花のブロックをかすめ、白球はサイドラインぎりぎりへと突き刺さった。
「アウト……じゃない! インだ!」
審判が手を上げ、得点を告げる。
「よっしゃあああああああ!」
かぐやのチームメイトが歓喜の声を上げ、コート内に飛び込んでくる。
20対18。
この一点で、かぐやのチームが先にマッチポイントを迎えた。
鈴花は何も言わない。
ただ、ネット越しにかぐやをじっと見つめていた。
そして、ラストのラリー。
全員が集中を研ぎ澄ます中、トスは再びかぐやのもとへ。
跳ぶ。
空中で、彼女は力強く腕を振り抜いた。
――鋭い打球が、ネットの向こう側を貫く。
鈴花も飛びついたが、間に合わない。
「――ゲームセット!」
静寂の体育館に、審判の声が響く。
そして、どっと湧き上がる歓声。
「……勝った、のか」
かぐやが静かに呟いたその声は、どこか呆然とした響きすらあった。
ネット越しに、鈴花と目が合う。
相変わらず無表情だが、その唇がほんのわずかに動いた。
「……強かったです」
それだけを残し、鈴花は静かにネットを回って、かぐやと向き合った。
小さく、頭を下げる。かぐやもまた、静かに手を差し出した。
「ありがとう、鈴花。楽しかったわ」
その言葉に、鈴花はほんの少しだけ目を見開いた後、そっとその手を握り返した。
勝者と敗者。
でもそこには、敵味方を越えた、真っ直ぐな敬意と絆があった。




