33 竹取の翁
讃岐造――それは『竹取物語』に登場する、竹取の翁の本名だ。
彼は竹を取る仕事を生業とする、どこにでもいる普通の人間だった。特別な力があるわけでもなく、豪傑でもない。ただ竹を切り出し、日々を生きていた一人の老人。
ある日、いつものように竹を取りに行っていた彼は、不思議な出来事に遭遇する。一本の竹の中から赤子が現れたのだ。その赤子を家に連れ帰り、まるで実の子のように育てることにした。
赤子に与えた名前は「かぐや」。その名は、彼が与えられる限りの愛情を込めてつけたものだった。
やがてかぐやが成長すると、美しさが評判となり、彼女のもとには数多くの結婚相手が訪れるようになる。讃岐造は、その中から最適な相手を見つけようと奔走した。彼にとって、かぐやは我が子以上の存在だった。
だが――幸福は長くは続かなかった。
ある日、月の使者が地上に現れ、かぐやを連れ去ってしまう。讃岐造は命がけで彼女を守ろうとしたが、無力だった。自分がどれだけ足掻こうと、月の使者たちの力には太刀打ちできない。
その結果、彼はかぐやを失った。彼にとって、それは人生のすべてを奪われるに等しい出来事だった。
――その後、竹取の翁がどうなったのか。
物語の中では語られることなく、ただ彼の姿は歴史の中に消えていった。どこで何をしていたのか、誰も知らない。それは、彼自身が封印してしまった過去のようにも思える。
それが、俺が知っているこの世界で得られた讃岐造の過去だ。
つまり――転生前の彼は、何か特別な力を持っていたわけではない。彼はただの老人であり、英雄でも戦士でもない。ただ、竹を切り、娘を育てた普通の人間だったはずだ。
――そのはずなのに。
目の前にいるこの老人は、確かに自分の口で「お主には死んでもらう」と言い放った。その声には迷いも後悔もなかった。
「どうしてそんなことを――」
その疑問が喉元まで出かかったが、呑み込む。尋ねたところで、彼が答えるとも限らない。そして、それを聞いてしまえば、後悔することになると思った。
――一体、何があったというんだ。
讃岐造の瞳には、深い悲しみと決意が宿っている。かつて月の使者からかぐやを奪われたあの日から、何かが彼を変えてしまったのだろうか。
俺を殺す宣言をしてきた讃岐造。その普通の老人という印象は、彼の言葉と共に消え失せ、得体の知れない存在へと姿を変えつつあった。
「お前の目的は何だ? 俺を殺してどうするつもりだ!」
疑問が渦を巻く。けれど、そのままでは頭の中を占拠されるばかりで、冷静さを失いそうになる。だからこそ、俺は声に出さざるを得なかった。
しかし、その答えは冷酷だった。
「お主に答える義理はないっ!」
讃岐造が杖を床に強く突き立てると、真っ黒だった空間が一瞬にして変わった。無音の闇が、ざわざわと風に揺れる竹林へと姿を変える。青々と茂る竹の葉が周囲を埋め尽くし、視界の全てを支配した。
その瞬間、造は手にしていた杖を斧へと変えた。
――いつの間に?
その疑問を抱く間もなく、彼は驚くべき速さで斧を振りかざし、俺に襲いかかってきた。老人の姿をした造の動きは、もはや「俊敏」という言葉では片付けられないほど速い。斧の一撃には風を切る音が伴い、空気が震える。
――老人の動きじゃない。
その一撃を、俺は咄嗟に両腕で受け止めた。斧の冷たい金属が皮膚越しに伝わる。衝撃で体が少し後ろに吹き飛びそうになるが、なんとか踏ん張った。
確かに、俺は転生者だ。常人より身体能力は高い。だが、それでも転生者の中では弱い方に属する。実力が上位に届かないのは分かりきっている。
――それなのに、竹取の翁だったはずのこの老人が、ここまでの力を持っているなんて。
信じがたい光景に思考が追いつかない。竹を取るだけの仕事で、この身体能力が得られるわけがない。
「『火炎』!」
両手を構え、目の前に魔法陣を二つ展開する。そこから生み出された炎の玉が、赤々と燃えながら造へと飛んでいった。しかし――
「甘いわっ!」
斧を軽々と振り回し、造は炎の玉を斬り裂いた。炎は跡形もなく消え去り、彼はその勢いを全く衰えることなく、再び俺に迫ってきた。
――やばい、次が来る。
もう一度、炎の玉を二つ放つ。だが、それすらも造の斧は難なく切り裂き、竹林の中に火の粉すら残さない。
――これじゃ、時間を稼ぐのが精一杯だ。
焦りを感じながらも、さらなる威力を持つ魔法を発動するべく、新たな魔法陣を構築する。
「『火炎砲』!」
先程の倍以上の大きさを持つ炎の玉が、轟音と共に造へ向かって飛んでいく。竹林の空気を震わせるほどの威力。これなら――
しかし、その希望は一瞬で打ち砕かれた。
「ほう、少しは骨があるようじゃな……だが、まだ足りぬ!」
造は微動だにせず、斧を振り抜く。その一撃で、俺の全力を込めた炎の玉は真っ二つに切り裂かれた。炎の破片が四散し、竹林の中に小さな光の雨を降らせる。
――嘘だろ。
目の前の老人の圧倒的な力に、俺の体が硬直する。次の一手を考える余裕すら奪われそうになる中、造の冷たい視線だけが俺を射抜いていた。
――これ以上の魔法を使えば、殺してしまうかもしれない。
造を殺そうと思えば、一瞬で終わらせることは可能だ。だが、それは許されない。彼を生きて捕らえなければならない理由があるからだ。
――こんな状況で手加減をしながら戦うなんて、無茶だ。
自分の力を抑えながら戦うのは、想像以上に難しい。特にこの世界では、ちょっとした手違いで相手の命を奪ってしまう危険性がある。
「『赤鎖』!」
叫びと共に、新たな魔法陣が空間に浮かび上がる。そこから放たれたのは、赤く燃え盛る鎖だ。鎖は空中を舞い、正確に造の手足を絡め取った。
――これで動きを封じる。
燃え上がる鎖が造の体に触れるたび、炎が彼の肌を舐めるように揺らめく。老人の肉体では、この炎に耐えられるはずがない。最悪、体が溶けてしまうのではないか――そんな不安が脳裏をよぎった。
だが、その心配はあっさりと打ち砕かれる。
「この程度の拘束、儂には通用せんわ!」
造の低い声が響き渡ると同時に、彼の手足が鎖を引きちぎり始めた。鎖が抵抗するように火花を散らすが、彼の力には抗えない。瞬く間に手足が切断され、鮮やかな血の赤が竹林の中に飛び散った。
――何をしている!?
驚愕の中で見つめる俺の前で、切断された造の手足が変化を見せる。
「ふん、まだまだじゃな……」
造は平然と立ち、無造作に切り口を見つめる。すると、次の瞬間、その手足がゆっくりと再生を始めた。骨が現れ、筋肉が覆い、皮膚が再び形成される。まるで時を巻き戻したかのように、元通りになっていく。
――これが本当に普通の老人なのか?
常識ではあり得ない光景を目の当たりにし、俺の頭の中は混乱する。
――魔法を使ったわけでもない。それなのに、こんなことができるなんて。
竹取の翁として知られる讃岐造。その過去は、普通の老人のはずだった。だが、目の前にいる彼は明らかに「普通」を超越している。
――もしかすると、転生の過程で何かしらの能力を与えられたのかもしれない。
そんな推測をする暇もなく、造は再び俺に向かって歩みを進める。その瞳には、確かな殺意と揺るぎない決意が宿っていた。
「『青鎖』」
水のような鎖が造の手足を縛り、再び拘束する。
今度は縛りつけるのではなく、優しく水で覆う。その水は全身に薄く、張り巡らされ、先程のような力業では抜けられないようになっている。
それに気が付いたのか、造は抵抗をやめ大人しくなった。




