第一話 お父さん、とお母さん その八~速度は稲妻~
いいひとばかりならいいけど、そうではないのが世の中。
暴力はいけないけど、じゃあ暴力を振るいたくなるほどに
神経を逆なでした者勝ちか? どう思いますか?
では、どうぞ。
「そっちには行かねえ。ここで答える。俺はなにもやましいことなんてしてねえから」
康お兄ちゃんがなにも答えなかったのが図星をさされたからだと受け止めた警察は、
来てもらえる?
と言いながら、これで大人しく俺の言うことを聞くだろうと悦に浸っているのがばればれの声色で言ったから、康お兄ちゃんに突っぱねられてさぞかしカチンときたことだろう。
ざまあみろ、と僕は思った。
そして、康お兄ちゃんがここまで怒りをあらわにしたところを見るのは、初めてだと気が付いた。
玄関と茶の間で離れてはいるけど。
「昨日の七時ごろは、俺は自転車に乗ってすぐそこのコンビニに行った。自転車なら三分もかからないくらいだ。コンビニの防犯カメラを調べれば、俺が嘘をついていないことがすぐにわかるだろ。窃盗事件はどこで起こったんだ? ここからコンビニまでの道順を教えてやる。俺の無実が証明されるから」
康お兄ちゃんは声高に言った。
その態度が気に入らない警察の、三十歳前後の声が言った。
「でもまあ、自転車なら迂回しても二、三分のロスで済むし、犯行時間と思われる時間に、コンビニにいたとしても、被害者が申告した時間には多少の誤差があるんだから、残念だけどそれが証拠ってわけにはならないんだよねえ。ほかになにか、あります?」
「コンビニって、あっち? こっち?」
やり合っているふたりの熱を冷ますように、五十代の声がした。
うちから近いコンビニは、南西と東に、どちらも百メートル程度の距離のところにあるのだ。
五十代の声のほうが間に入ってうまくとりなしたおかげで、事態がそれ以上荒立たずに済んだようで、自転車の車種確認をして、被害者の証言した自転車とは明らかに違うとわかった警察ふたりは、もう一度玄関に来て、お母さんに話をして、去り際にこう言った。
「ご協力、ありがとうございました。こんなでっかいお屋敷だから、もし泥棒なんかが来たら、すぐに連絡ください。とっ捕まえますから」
その場にはまだ康お兄ちゃんもいた。
三十歳前後の声がこんな捨て台詞を、茶の間にも十分聞こえる大きさで吐いた。
「じゃあ、今度は臭い飯食わないように気を付けてね」
稲妻の速さで飛んで行って、その警察の胸ぐらをつかんだのは、康お兄ちゃんではなくて、お父さんだった。
「お前、いい加減にしろよ、馬鹿野郎。こいつはまかり間違っても窃盗なんてするような性根の腐った人間じゃねえんだ。最初から康を職質するのが目的だったくせに、上っ面だけ腰低くしやがって。この偽善者が。関係ねえことまで持ち出して、権力笠に着て図に乗った態度取りやがって。手ぇついて謝れ。謝らねえとぶっ飛ばすぞ」
そのときには、僕もお姉ちゃんも玄関に行っていた。
「兄ちゃん、いいよ。やめろよ。兄ちゃんが捕まっちまうだろ」
康お兄ちゃんが、いまにも拳を振り下ろさんとしているお父さんをどうにか羽交い絞めにして、どうにか抑えていた。
「いいことあるか。康をコケにしやがって。俺はこんな悪徳野郎が許せねえんだ。早く康に謝れよ」
五十代の声の主も加わって、どうにかお父さんを引き離した。
胸ぐらをつかまれていた三十歳前後の声の主が、ぎろりとお父さんを睨んでいた。
「いいんだよ、兄ちゃん」
「いいことあるか。止めるな」
康お兄ちゃんの言葉を遮ってお父さんがまくしたてて殴りかかろうとするのを、康お兄ちゃんと五十代の声の主に僕も手を貸して、なんとか抑えていた。
「おい、謝れ」
五十代の声の主が言って、三十歳前後の声の主の眼の色が変わった。
二、三秒のことだったのかもしれないが、しばらくに感じられる時間ののちに、三十歳前後の声の主が言った。
「すいません」
もちろん、反省の色のない謝罪だった。
話をまとめてそそくさと帰っていく警察ふたりの背中を、息を荒くして見送ったお父さんは、大きく息を吐いてから、お父さんとお母さんの部屋に大股で歩いて行った。
お父さんの足音が聞こえなくなると、僕らは茶の間に戻った。誰もなにも言わなかった。
いや、言えなかったのだ。
夜になって風向きが変わった風が、カーテンを揺らせた。
康お兄ちゃんが、秘密にしていた昔話を始めた。
「俺なあ、昔、留置所に入れられたこと、あるんだよ」
「康くん」
「大丈夫。逆恨みがどうとか、臭い飯とか、そのことなんだよ」
「でもそれは康くん、悪くないじゃない」
「いや、俺が酒飲んで酔っ払って喧嘩したのが悪いんですよ。兄ちゃんにまで責任が飛び火して、重要な仕事のプロジェクトから外されちゃって、出世競争から一歩も二歩も送れちゃって……」
「康くんだって仕事、辞める破目になったじゃない。それに因縁吹っ掛けてきたのは向こうのほうよ」
「どういうこと?」
お姉ちゃんが訊いた。お母さんが答えた。
「まだあなたが生まれたばかりのとき、だから三十年前にね、わたしとあなたとお父さんと康くんとで外食に行ったの。お寿司屋さん。そのときに赤ん坊のあなたが泣き出すたびに、お母さんほかのお客さんに謝って店の外であやしたの。そしたら客のなかの一組が文句言ってきたの。うるせえぞ、とか、ガキ連れて外食なんかすんな、とかね。わたしらみんな我慢したのよ、そのときは。それで食事が終わって、わたしらは家に帰って康くんはひとりで飲みなおしたの。そしたらばったりその文句言ってきた連中と出くわしちゃってね。向こうは大勢でこっちは康くんひとりでしょ。絡まれちゃって。康くんもお酒が入ってたし、その勢いで、パンパーンと。そしてさっき言ったとおりになっちゃってね」
「じゃあ康お兄ちゃん、悪くないじゃん」
とお姉ちゃん。
「絡んできた三人のうち、ふたりが頬骨骨折。ひとりが鼻骨骨折。歯も三人合わせて五本折ってやった。やりすぎちゃったんだな」
康お兄ちゃんは頭を掻いた。
「でも康くん、それからお酒、一口も飲んでないのよ。一滴も」
「おお、漢だわよ。男子の男じゃなくて、漢字の漢で、漢だわよ」
姫たんが称えた。
姫たんは感動しいなところがあるのだ。
「でも姫たん、康お兄ちゃんはお父さんにもお祖父ちゃんにも迷惑かけたんだよ。お祖父ちゃんが謝って、示談金も出してくれて、じゃなかったらもっとひどい罰を受けてたかもしれないんだよ。かっこよくなんかないよ」
「ううん、そんなことないだわよ」
姫たんが目をキラキラさせて言うから、康お兄ちゃんは照れ臭そうに笑ったんだ。
夜になったせいで、日中のように暖かくはなくなった。
だから開けておいた窓を閉めるときに、お母さんは忘れていたわと雨戸も閉めた。
散歩でもしているのだろう、犬の鳴き声が聞こえた。
わりと近くで、だ。
ボリュームを上げたわけでは、もちろん、ないのだけど、テレビの声が聞こえるようになった。
でも、テレビの内容に集中しているひとはいなかった。
みんながみんな、思い思いに考えに耽っていた。
と、
「ちょっといいかなあ」
と康お兄ちゃんが真剣な顔で切り出した。
R15の境目がよくわからなくて、今回の話で康お兄ちゃんの喧嘩の描写が
あるから、一応、保険のためにとR15にチェックしたのですが、
必要ななったですか? 十五歳以下のみなさんにも、十五歳以上のみなさんにも
楽しんでいただけるように、頑張ります。
では、また。