第一話 僕のお父さん、とお母さん その四~食卓は氷点下~
わたしが応援している野球チームは、わたしが観ていると負けてしまいます。
わたしは運動神経がないので、観て楽しむひとなのですが、
みなさんは青春をかけて打ち込んだスポーツとか、ありますか?
(注、本文とはなんの関係もありません)
では、どうぞ。
いつもどおり六時を十分かそこら回って、ウイニング・ランのような余韻を残したあとに、化粧を終えた雪が僕を起こしに来る。
今回の眠りは深かったらしく、目が覚めたときには雪が
「りーんーたーろーう」
と僕の顔を揺すっていた。
「寝坊助」
そう笑った。
布団をはいでベッドを出て立ち上がり、僕は伸びをした。
目覚めたときに前の晩、布団に入ってから眠りにつく前に考えていたことを忘れてしまうことはままあるが、お姉ちゃんの妙案(?)は覚えていた。
話しているときにお姉ちゃんが二度、顔に落ちた髪を耳にかけたことも、ありありと。
不安はないのか?
いや、ある。
作戦を実行するまであと一時間を切っている。
それがどのようなものであろうとも、人が為すことには大なり小なり不安がつきまとうものだ。
上手くいくかな?
とは思うものの、なんのアイディアも出せなかった僕に批判する資格はないのだ。
いまごろ、お母さんと雪が朝の挨拶を交わして台所に立ちながら、目配せなんかしているはずだ。
僕はルーティンどおり、トイレを済ませて髭を剃ってから顔を洗った。
そうしておじいちゃんちに向かった。
昨夜の天気予報のとおりに冷え込んだ朝で、僕は身震いをした。
先に貧乏くじを引いたのだからきっとうまくいくだろうと、半ば強引に自分を納得させて。
お祖父ちゃんちの食卓は台所とひとつながりで、茶の間とは離れている。
台所に集まるのは、当然、食事のとき以外には(まず)ない。
だからテレビも小さめの55インチだ。
挨拶を交わした僕は定位置に座ると、テレビに目をやった。
ご飯が出来上がるまでの十数分間、僕はそうして過ごすのだ。
お父さんと康お兄ちゃんは新聞でお互いの顔を隠して、目が合わないようにしている。
続行中ってことだ。
今日の芸能ニュースはとくに女子人気の高い歌手のニューシングルの話題と、映画祭で賞を取ったこともある大物俳優が病気で緊急入院したというニュースに大きく時間を使って放送した。
……まったく頭に入らなかった。
いまごろ、お姉ちゃんが姫たんに台詞、教えてんのかなあ。
胸がそわそわとし出して、僕は軽く緊張し始めていると実感した。
お母さんと雪はどうなのだろうかと料理をつくっているふたりに目をやっても、流しに向かって朝ご飯のおかずや味噌汁をつくっている最中、つまりはこっちに背中を向けているわけで、その表情は見られなかった。
そのうちに姫たんが来て
「おはようだわよ」
といつもの挨拶をしたのだけど、挨拶を返したお父さんと康お兄ちゃんがかたす前にふたたび新聞に視線を戻したのを確認すると、姫たんは僕に、いたずらに笑ってウインクしてみせた。
まもなく作戦決行だ。
「きょーおもぼーくたーち、げーんきいーっぱい」
お祖父ちゃん自作の歌だ。
とてもいい笑顔で、こっちも笑顔になる。
でも、僕の笑顔はこわばり気味だと、自分でわかっている。
「今日はいつもよりちょっと早めに朝ご飯ができましたよ」
「わーい」
おかずを運んできたお母さんに、お祖父ちゃんが歓声を上げる。
さあ、いよいよだ。
皿が、次いで茶碗が運ばれてきて、朝ご飯の準備が整う。
お母さんと雪が座ると、みんなで手を合わせて声をそろえる。
「いただきます」
さあ、あとはお姉ちゃんのきっかけを待つばかりだ。
ここまできたら、僕はもうなるようになれって心境だ。
このおかずのなかに高額な食材が隠されていても、僕にはさっぱりわからないだろう。
と、僕はある重大なことに気が付いた。
気が付いたとき、大袈裟ではなく、心臓がぎゅっと縮んだ、なにに気が付いたのか?
食卓に並んでいる料理をあげていけばご理解いただけるだろう。
この日のメニューは、なめこの味噌汁、ご飯、野菜炒めにピリ辛キュウリ、薄くスライスされた生ハムとサラダ。
……醤油、いらねえじゃん!
マジかあー。
お母さんと雪、マジかあー。
こんなことが起こりうるのか?
いや、起こったのだけど。
僕がショックを受けていると、姫たんがお姉ちゃんになにか耳打ちをしているのが目に入った。
お姉ちゃんは驚いて自分の前の朝ご飯を確認してから、僕を見た。
どうする? と僕が口を動かすと、
やる。やる。
お姉ちゃんは口を動かして答えた。
僕のお姉ちゃんはこういう人だ。
僕はお姉ちゃんにだけ伝わるように、無理だよ、と口を動かした。
するとお姉ちゃんは、根性、と口を動かし、握り拳で心臓を二度、叩いた。
そのころにはお母さんも雪も気がついたようで、僕らのやり取りを横目で見ながらご飯を食べさせたり食べたりしていた。
根性じゃどうにもならないよ。
それが僕の本音だったけど、お姉ちゃんは軽く咳払いをした。
口を小さく開き息を吸い込み、もう言葉を発するところまできた。
もう止まらない。
僕はもういよいよ、なるようになれ、と捨て鉢になった。
でも話し出したのはお姉ちゃんではなく、康お兄ちゃんだった。
「今日は醤油が必要なおかずがないから、醤油取ってーなんて頼まれることもなくて、よかったな、麟」
一気に凍った。
お祖父ちゃんだけが、お母さんが口に運んだ野菜炒めを咀嚼して笑っていた。
みんなが、お父さんを目の端で捉えた。
お父さんはなにも聞こえてはいなかったかのように、ご飯を食べ進めた。
お父さんも康お兄ちゃんも大人だ。
喧嘩をしているからといって殴り合ったりなんてしない。
少なくとも僕は見たことがない。
罵り合ったりもしない。
怒りが自然消滅するころ(それは大体三日目くらい)にお母さんも知らないうちに和解するのだ。
こんなふうに嫌味を言うのは初めてで、これはもうただ事じゃないぞ、と僕は思った。
あのお姉ちゃんでさえ、作戦を中止した。
雪に至っては青ざめていた。
お父さんと康お兄ちゃんの胸にある苛立ちがありありと伝わってきて、だれも口を利けない状況になった。
前回の喧嘩、といっても前回がいつだったかはっきりとは覚えてはいないのだが、おそらく四年ほど前は、まだきっと物心もつく前の姫たんがしゃべった。
無邪気が故か、子どもなりに場を和ませようとしたのか。
でも僕はひきつった笑いしかできなかった。
それははっきりと覚えている。
姫たんは三歳にして、お父さんと康お兄ちゃんが喧嘩をしているときは、面白い、面白くないにかかわらず冗談を言ったら駄目なのだと学習した(ようだった)。
唯一、お祖父ちゃんだけがこんなときでも冗談を言う。
いや、こんなときだからこそ、だろうか?
本人にその自覚があるのかないのかはわからないのだが……。
だから、食卓の凍り付いた空気を溶かしてくれたのは、お祖父ちゃんだった。
「美味しいなあ。儂ゃあ朝ご飯が三度の飯より好きなんじゃ」
「朝ご飯も三度の飯のひとつですよ」
お母さんが正す。
「おお、そうか。つまり儂は三度の飯より三度の飯が好きということか。んん?」
お祖父ちゃんには計算してボケる、という概念はない。
天然というよりも、純粋だ。
だからやっぱり自覚もないのだろう。
お祖父ちゃんが首をひねると、こわばっていたみんなの顔に赤みがさした。
その「みんな」には、心のうちに怒りを秘めたお父さんと、いましがた意趣返しをした康お兄ちゃんも含まれているのだが、ふたりは「だからって仲直りはしない」というようにむすっとした。
お母さんは僕だけがわかるように、首を横に振った。
仕方ないよ、という意味で僕は肯いた。
康お兄ちゃんは、悪い意味で静かな朝ご飯を終えて(姫たんの手前、きちんとごちそうさまを言った)先に立つときに、お父さんを一瞥した。
睨む、とまではいかないまでも、そうとうの怒りのこもった目で。
お父さんはそれを見逃さなかった。
「このあとは風呂か。俺は飲まないからわかんないけど、風呂上がりのビールって、美味いんだってなあ」
康お兄ちゃんの動きがぴたりと止まって、髪の毛が逆立つんじゃないか、と思わせるくらいの怒りの表情をした。
それでも康お兄ちゃんは、なにも言わずに台所を出た。
「お父さん、ちょっと言いすぎよ」
お母さんがたしなめた。
「あいつ、睨んだんだよ」
お父さんは言葉を選んだのだが、声に苛立ちの色がしっかりとあって、お母さんはなにも言い返せなかった。
僕がお母さんの立場だったとしても、同じだったと思う。
お父さんが怒ることなんてめったにないから、それだけで十分な恐怖なのだ。
だから、もしもそれを通り越してキレる、なんてことになったら、肝が潰れてしまうだろう。
僕はお父さんがキレたところなんて見たことがない(もしくは小さすぎて記憶できなかったか忘れてしまった)から、お父さんがキレるところなんて想像もできないが、前にお姉ちゃんが話してくれたことがあるのだ。
キレたお父さんが康お兄ちゃんをボコボコにしたことがあるのだと。
理由がなんだったかは忘れたが、お父さんが、あの温厚なお父さんがひとを、しかも康お兄ちゃんをボコボコにするなんて! とそれは僕の心に鮮烈に刻みついたのだ。
おそらく、だから康お兄ちゃんも髪の毛が逆立たんばかりの怒りを、ぐっとこらえるしかなかったのではないだろうか?
お父さんがこんなことでキレるほど激昂するとは思えないけど、でも、いま、たしかにお父さんは怒っている。
平静な顔をしていつものお父さんに見えるけど、怒っている。これはそうそう収まる事態じゃないぞ。
僕はピリ辛キュウリをかじった。
ほどよい辛さだった。
……醤油、いらねえじゃん!
気に入っている台詞なので、繰り返しました。
お父さんと康お兄ちゃんの喧嘩はひどくなる一方です。
でも、喧嘩というものは簡単に収まるものばかりではないので、
こうなるのも仕方がないのではないでしょうか?
次回を楽しみにしていただけたら嬉しいです。
では、また。