第一話 僕のお父さん、とお母さん その二~始まった冷戦~
五月になって温かくなってきましたね。
日によっては「暑い」ときもありますね。
これからあっという間に夏になりますね。
たくさん笑いたいですね。
では、どうぞ。
我が家で、と言ってもふたつの家に別れて住んではいるが、一番早起きなのは、と言っても康お兄ちゃんが夜の仕事をしているから判断が難しいのだが、雪だ。
雪は五時過ぎに起きて、四十分ほど運動をしてたっぷりと汗をかいてから、シャワーを浴びる。
浴びてからお姉ちゃんを起こして、今度はお姉ちゃんがシャワーを浴びる。
そしてふたりは化粧をする。
五時二、三十分ごろに康お兄ちゃんが自転車に乗って帰ってきて、ポストから新聞二紙を持ってお祖父ちゃんちに朝を告げる。
お母さんは毎日、日曜でも、五時半に目覚まし時計をセットしていて、時計のアラームで目を覚ます、のはまれで、お母さんはかならず毎日、目覚まし時計が鳴る前に起きていて、康お兄ちゃんが帰ってきて玄関を開けるのと自分が起きるのどっちが早いか競争しているのだそうだ。
お母さんが勝ったら康お兄ちゃんがお母さんにコーヒーを淹れて(康お兄ちゃんのこだわりで、豆から挽いたコーヒーだ)、康お兄ちゃんが勝ったらお母さんが康お兄ちゃんにコーヒーを淹れる、というちょっとした遊びをしているのだ。
康お兄ちゃんの仕事が休みの日で家にいるにもかかわらず、つい
「今日は遅いわねえ」
と首をひねってしまう日もあると笑ったこともある。
康お兄ちゃんの仕事は不定休だからそれも仕方がないことではあるのだ。
……といまは思うのだけど、以前は「明日は休み」と言わない康お兄ちゃんが、もしくはそれを言われて忘れるお母さんがうっかり者だ、と思っていた。
そう口にしたこともある。
お姉ちゃんに
「お母さんも康お兄ちゃんも忙しいんだから、そんなの忘れちゃうこともあるでしょ」
とたしなめられてすぐに反省したのだが。
化粧をすませた雪は僕を起こすと、お祖父ちゃんちに行ってお母さんと朝ご飯&弁当作りに取り掛かる。
高校時代から雪の手作り弁当を食べているからわかるのだが、雪の料理の腕は格段に上がった。
正直に言うと、雪の弁当は不味かった。
いや、不味いと言っては語弊がある。
僕の家が金持ちであるがゆえに、贔屓にしている外食先のシェフや大将はもちろん、毎日食べているお母さんのそれと比較しても、腕が落ちるのだ。
ゆえに物足りないというか、味気ないというのか、素直に美味しいとはいえない出来だった。
使っている食材にも問題があるのだろう。
僕は高校の三年間のお昼ご飯のほとんどを、口に合わない雪の手作り弁当で過ごした。
残したことは一度もない。
これはわかってもらえないのが悔しいのだけど、すごいことなのだ。
だから、男は大概ひとり暮らしをしてはじめて気づくのだけど、お母さんがつくる料理のありがたさを、高校生のときに僕は知ったのだ。
それに、弁当を受け取って、ふたを開けて、一口食べた僕の感想を待つ雪の、すこし不安そうに、そしてなにかを期待しているように僕を覗き込む顔、一口食べて
「美味しい」
って僕が言ったときの雪の笑顔は、それはそれはかわいいんだ。
とまたうっかりと惚気てしまう僕。
いや、ちゃっかりと、かな。
お姉ちゃんが姫たんを起こしてお祖父ちゃんちに来るのは、六時三十五分から四十分くらいなのだけど、そのときにはもうみんなが食卓周りに勢ぞろいしている。
姫たんは重役出勤だ。
姫たんの
「おはよう」
にみんなで答える。
正確には
「おはようだわよ」
なんだけどね。
そのころには、お母さんと雪のつくる朝ご飯はあらかたできていて、お父さんは経済新聞を、康お兄ちゃんはスポーツ新聞を読み終える。
もしくは読む手を止める。
お祖父ちゃんは湯呑みのお茶を、ご飯が来るまで三十分くらいかけてゆっくりと飲む。
震える手で、こぼさないように両手で湯呑みを大事そうに持って、だ。
ごくりと喉を鳴らして、満足そうな顔をする。
僕はテレビの芸能ニュースを、見るともなく見る。
誰それが出るハリウッドの新作映画のニュースとか、最近になって人気急上昇中の日本のバンド、誰それのニューシングルのニュースとか。
とくに興味があるわけでもないのだけど、見る。
そうしているうちに、お母さんと雪が二回に分けて朝ご飯を運んでくる。
おかずには昨日の残りも混ざってはいるが、うちはもったいない精神を持つ金持ちなのだ。
もったいないことはしない。
美味しいしね。
おかずが運ばれてきてから、ご飯とお味噌汁が運ばれてくる。
うちはみんな、朝はご飯派なのだ。
お祖父ちゃんがいつものように拍手をする。
お母さんと雪が座るのを待ってから言う。
「いただきます」
そうして、それぞれがそれぞれのペースで食べ始める。
この日のメニューは、目玉焼きと納豆と肉じゃがとたくあん、昨日の夜に残ったローストビーフにけんちん汁、デザートはキウイだ。
僕は目玉焼きにソースをかけて一口食べた。
それを見たお母さんが、手を休めて言った。
「今日はどっちだかわかる? 麟太」
お母さんはみんなに内緒で、二十個九千円以上もする烏骨鶏の卵とか、グラム二千円の納豆みたいな高級品を買ってきて食卓に出し、反応を楽しむといういたずらをたまにするのだ。
僕はよく味わってみる。
「……スーパー、かな?」
「当たり」
そのやり取りを、お父さんは納豆を混ぜながら聞いていた。
目を細めながら。
お父さんは目玉焼きには醤油をかける人だ。
それは昔からなのでもちろん僕は知っていたのだけど、お父さんはいつも
「康、醤油取ってくれるか?」
と僕ではなく康お兄ちゃんに頼むのだ。
だから僕が醤油差しを差し出すことはなかったんだ。
でも、お父さんは言った。
「麟太、醤油取ってくれるか?」
場に緊張が走った。
姫たんでさえ空気が変わったのがわかったようだった。
お祖父ちゃんだけが、嬉しそうにご飯を飲み込んだ。
僕は一拍置いてから
「うん」
と言って醤油差しを渡した。
お父さんは、故意か偶然か、僕と目を合わせなかった。
康お兄ちゃんをちらりと窺うと、目を伏せてご飯をかっこんだ。
お母さんはなにも言わずに肯いた。
そう、お父さんと康お兄ちゃんが喧嘩をしていることを、僕たちはこうやって知るのだ。
お父さんも康お兄ちゃんも大人です。
カチンときたからって暴力に訴えたりは(まず)しません。
であるがゆえの「冷戦」なのです。
家族もひやひやします。
ひやひやした家族は、どうするのか?
では、また。