第一話 お父さん、とお母さん その九~テンパったお父さん~
このあいだ、家の中で小さなアリを見つけました。
よく見ると、小さなクモから逃げているところでした。
どちらも殺しました。…………なんちゃって。
(注、本文とはなにも関係ありません)
では、どうぞ。
次の土曜日。
朝、お父さんは、今日は定時で帰ってこられると思う、と言っていた。
だから僕と康お兄ちゃんは五時十分には玄関でお父さんの帰りを待っていた。
どちらからともなく目を合わせるたびに、くすくすと笑いながら。
五時二十分を回ってややあったころに、お父さんの車が車庫入れするエンジン音が聞こえてきて、僕と康お兄ちゃんは身構えた。
来たな、麟。
うん、来たね、準備はいい?
もちろんだ。
なんて言いながら。
僕たちは楽しんでいたのだ。
当然、そうとは知るはずのないお父さんが、庭から玄関まで歩いてくる。
お父さんが玄関の引き戸を開けるや否や、僕と康お兄ちゃんは「ごめん」と飛びかかって、袋をかぶせて目隠しをした。
手錠もかけた。
そして担ぎ上げて、お父さんとお母さんの部屋にまで大急ぎで運んだ。
「麟太、康、いったいなんなんだ? どうするつもりだ?」
「ごめん、お父さん。これ着るだけだよ」
そんな説明ですべてを理解できるはずもなく、お父さんは困惑した。
そしてこのあとのお父さんの発言から、お父さんは脳内できっとこんなことを考えていたのだろうと、僕は推測してのちのち思い出し笑いをすることになる。
きっとお父さんは、こんなふうに考えたのだ。
キルってなんだ?
……キル?
……きる?
……木ル?
……気ル?
……喜ル?
……祈ル?
……切る?
……斬る?
……KILL!
「殺す気か!」
「なに言ってんの、お父さん」
「いいから足上げて。麟、今度は上だ」
上を着せるのは、お父さんが暴れたので苦労したが、康お兄ちゃんとふたりがかりでなんとか着替えさせた。
「麟、任せたぞ」
康お兄ちゃんはそう言って、目隠しのうえに手錠をしたお父さんを置いて、準備が整ったことを告げに行った。
「麟太、どういうことなんだ?」
椅子に座らされたお父さんが、呆れた声で言った。
「まだ言えない。すぐにわかるよ」
僕は言いたかったけど、これは特大のサプライズなのだ。
康お兄ちゃんが来るのを、なにも言わずに待った。
どかどかと忙しい足音が近づいてきたので廊下に顔を出すと、康お兄ちゃんが手で丸をつくった。
僕はお父さんの手錠と目隠しを外した。
「タキシードじゃないか」
お父さんは驚いた。
さあ、こっちと僕は手を引っ張って、お父さんを会場に連れて行った。
お祖父ちゃんちの大広間だ。
当たり前だけどわけのわからない(わかるはずもない)お父さんは、訝し気な顔をしていた。
「準備オッケー。行くぞ」
康お兄ちゃんが大広間の襖の隙間から、顔だけ出して言った。
いち、にの、さん、で襖を開けると、拍手と歓声のシャワーだ。
驚いているお父さんを置いて、僕と康お兄ちゃんは席に着く。
それから拍手をする。
歓声を上げる。
お父さんは見つける。
ウエディング・ドレスを着たお母さんを。
そして気付く。
自分がタキシードを着ている意味に。
お父さんは困ったように笑ったあとで、胸を張ってお母さんの隣へと歩き出した。
神父役はお祖父ちゃんだ。
うちは金持ちなので本物の神父さんを呼ぶこともできたのだが、このほうがうちらしいからと、お母さんが言ったのだ。
神父の衣装を着たお祖父ちゃんは嬉しそうだった。
サプライズが成功した康お兄ちゃんも、満足そうだった。
あの日、康お兄ちゃんは真剣な顔でこう切り出した。
「義姉さん。結婚式、挙げよう」
僕もお姉ちゃんも、お父さんとお母さんが結婚式を挙げていないことを知ってはいた。
幼稚園に通っていた無邪気なころに、訊いたことがあるのだ。
「お父さんとお母さんって結婚したんだよね。結婚式って、どんなことするの?」
するとふたりの顔から一瞬だけ笑みが消えて、それから説明をしてくれた。
幼稚園児の僕には理解できなかったのだが。
「結婚はしたんだけど、式は挙げてないんだよ。お母さんのお父さんとお母さんに駄目って言われて、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが怒ったんだ。お父さんとお母さんも意地になって、意地になるっていうのは、この場合は頑固になるっていう意味だよ、もう言うこと聞かないって。でも片方のおうちだけじゃ式を挙げることはできないから、婚姻届けっていう、結婚しますよっていうお手紙みたいのを、区役所に出したの。わかる? 区役所。いけないことだけど、喧嘩してるの。だから、幼稚園のお友達は、お父さんのお祖父ちゃんお祖母ちゃんだけじゃなくて、お母さんのお祖父ちゃんお祖母ちゃんのおうちにもお泊りに行ったりするのに、麟太はお母さんのお祖父ちゃんお祖母ちゃんちには、お泊りに行かないでしょ? それはそういうことなの。わかった?」
「全然わかんなかった」
じゃあ麟太がいまよりもっとお兄ちゃんになったときに、もう一回話すよ。
そう言ってお父さんは笑った。
僕は
「ごめんなさいしても駄目なの?」
と訊きたくてお母さんの顔を見たのだが、とても寂しそうで、なんだか悪いことをしたような気になって、顔を伏せたんだ。
あの日、ふたりの警察官が来た夜に、康お兄ちゃんは続けた。
「もう三十年以上も前の話だ。いつまでも意地の張り合いなんてもうやってる場合じゃないよ、お互い。これがいい機会だ。仲直り、しよう。俺が義姉さんちに行ってくる。大丈夫、俺だってもういいおっさんです。それとも、そんなに俺は頼りないですか?」
「でも康くん……」
「いいの。大丈夫」
康お兄ちゃんとお母さんの間にある共通認識がなんなのか、わかるまでに僕は時間がかかった。
康お兄ちゃんがなにをするつもりなのか。
お母さんは言葉を飲み込んで、康お兄ちゃんに礼を言った。
そして僕とお姉ちゃんの顔を見て
「覚えてる?」
と話し始めた。
「もう一回話すって約束、いまがそのときね。ふたりとも、大きくなって」
お母さんは微笑んだ。
それはいまになってやっと気が付いた、という意味ではなくて、きっといつも心のどこかに留めておいたのだろうと、僕は受け止めた。
「結婚はしてても式は挙げてないっていうのは、覚えてるわね。いまじゃ珍しくないけど、三十年前は、とっても珍しかったのよ、できちゃった結婚って。でき婚だったのよ、実を言うとね。珍しいっていうか、かっこ悪い、恥ずかしいことだったのよ。少なくともいまよりは。そしてお母さんの親とか身内にとっては。お母さんの親がそれはもうかんかんでね。特にお母さんのお父さんが、お父さんとお祖父ちゃん、お祖母ちゃんにまで怒鳴り散らすくらいに怒ってね。お前らの育て方が悪いから、こんな馬鹿な子どもになったんだ。よくもうちの娘を傷者にしてくれたなって、すごい剣幕で。お父さんも怒っちゃって。何度か話し合ったんだけど、そのたびにもう殴り合い寸前よ。お母さんのお父さんも、一回言い出したら聞かない頭の固いひとだから、結婚なんて絶対に認めない、お前とは結婚させてなんてやらないって。お父さんついにキレちゃって。お前に認められなくても、俺たちは結婚できる年なんだ。そうやって子どもみたいにごねてろ。役所に婚姻届けを出せば俺たちは夫婦だ。お前がどんなに駄々こねてもなって。お母さんのお父さんが殴りかかったら、カウンターでパーン。それ以来、口きいてないの」
お父さんは物静かなひとだけど、やるときはやるひとなんだと再認識させられた。
「もちろんそこに至るまでに、そりゃあもう紆余曲折、あったからこその絶縁だったんだけどねえ。お母さんも若かったから、親子の縁を切ってお父さんと一緒になって。でもよかったわ。だってお母さん、幸せだもの」
お母さんの眼にはうっすらと涙が浮かんでいた。
もしもお母さんに泣かれたら、と僕はなんだか気まずかったのだが、それはいらない心配だった。
姫たんが号泣したのだ。
「ばあばが幸せでよかっただわよ。ばあばが幸せでよかっただわよ。感動しただわよ」
しゃくり上げながらそう言うから、みんな吹き出した。
でも、本当にそのとおりだ。
お母さんがお父さんと結婚して、お父さんを、お姉ちゃんと僕を、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんを愛してくれて、家族との縁が切れることになったのに、それでも幸せと言える、そんな人生をお母さんが送れて、よかった。
そのあとで、康お兄ちゃんがお母さんを中心にして、どんな結婚式にするかを話し合った。
お父さんには内緒にしようと決めたとき、みんな悪い顔をした。
式は一日でも早いほうがいいんじゃないかと康お兄ちゃんが提案して、お母さんが乗って、翌日には康お兄ちゃんがお母さんの実家に行って話をつけてきて、お父さんにばれないように五日という短い準備期間で計画を練った。
僕と雪はドレスにタキシードに神父様の衣装を借りられる店を探して、お母さんとウエディング・ドレスを選んでくるという大役を任された。
雪は大学を早引きして、ドレスの下見にお母さんを連れて行った。
そうして、金曜日になってすべての準備が整った。明日、と肯き合った。
康お兄ちゃんとお母さんの間にある共通認識、
はっきり書いたほうがいいですか? 書かなくても大丈夫ですか?
みなさんの声を聴かせていただけたら嬉しいです。
では、また。




