第一章 9
12月12日、豊と小倉は後楽園ホールに来ていた。他の選手の試合を見るのが目的である。
「どこまで参考になるかわからんが、見ないよりはマシだろう。活きたパンチを見て目を慣らしておけ」
自分以外にスパーリング相手がいないことを、小倉は常々気にしていた。
「今はまだいいが、クラスが上がれば…」
先日見た、FSGの練習風景が忘れられない。あそこなら、スパーリングパートナーに事欠かないだろう。
「大丈夫ですよ。俺には優秀なトレーナーがついているじゃないですか」
と、豊は笑うが、小倉は笑い返せなかった。
「貧乏所帯で迷惑をかけるが、そのうち出稽古の相手を見つけてやるよ」
現役時代のツテを利用して、すでに情報収集も始めていた。
すべての試合を見終え、二人は駅前のラーメン屋に寄った。
「彼女、飲み屋で働いてるんだったな」
「梓ですか?」
ラーメンをすすりながら、豊が逆に聞いた。
「他に誰がいるんだよ?」
小倉は、餃子をツマミにビールを飲んでいる。
「キャバクラで働いてます。毎晩酒の臭いをプンプンさせて帰ってくるんですよ」
「俺と同じだな…」
小倉は真面目な顔で言う。
「えっ?」
「うちの嫁さんだよ。ボクシングで食っていけなかったから、嫁さんが水商売をして支えてくれた。ずいぶん嫌な思いもしたと思う。いくら感謝しても、したりないほどだ」
「そうだったんですね…」
「だからと言うわけじゃないが、お前も大事にしろよ。この先、どんな人生を歩もうと、今この時の感謝を忘れるな。人は独りでは生きていけないんだ。特にボクサーは孤独になりがちだからな」
「はい…」
梓も言っていたが、やはり皆が二人の仲を誤解している。だが、豊には小倉の言葉が骨身に沁みた。言われるまでもなく、彼は梓に感謝していた。経済面のメリットだけではなく、梓や拳都といると家族のような安らぎを感じるのだ。安らぎに、血の繋がりなど関係ないのだろう。
小倉には、トレーナーとして非凡な能力があるらしい。次の対戦相手である広瀬の攻略を完成しつつあった。
三日後の試合に向け、豊と小倉はリングの上で胡座をかき、ミーティングをしていた。
「向こうはお前をナメてかかってくる。だから、お前の力に気づく前に沈めてしまうんだ。勝負は1ラウンド以内だ」
北原から譲り受けたDVDを、小倉は寝る間も惜しみ繰り返し見た。
「デビュー戦の相手とはレベルが違う。だが、俺はお前の方が大きい器だと信じている。ここもあっさり勝てと言ったらプレッシャーか?」
「いいえ。相手が誰であれ、4回戦で星を落とすわけにはいきません」
「よく言った」
小倉は立ち上がりミットを持った。
「さあ来い、零細ジムの無名ボクサー!相手は名門のスター候補生だ!」
「はい!」
「豊!」
「はい!」
「お前が金持ちになったら、俺と嫁に旅行をさせろ!」
小倉が怒鳴った。
「ハネムーンがまだなんだ!いいか、約束だぞ!」
豊は頷き、小倉のミット目がけて拳を叩き込んだ。
「クリスマスイヴも練習?」
仕事から帰ってくるなり、梓が豊に聞いた。
「どうして?」
「試合の翌日だから休みかなと思って」
「多分、本格的な練習はないと思う。この前もそうだったし」
「じゃあさ、外でご飯でも食べない?」
「外で?」
豊はキョトンとしている。
「別にいいけど何で?」
「何でって…」
そんな質問をする自体、豊が自分に興味がない証拠だろう。梓は悲しくなったが、その感情は束の間だった。
「じゃあ、俺にご馳走させてよ。そんなにいい店は行けないけど」
と言って、豊が微笑んだからだ。
「その笑顔だ…」
その純真無垢な笑顔が、すべてを和ませるのだと、改めて梓は実感した。特に、拳都を抱いている時の豊は、何物にも代え難い素敵な笑顔を見せる。
「豊君、今欲しい物ある?」
「欲しい物?」
「うん」
「そうだなあ、一回り大きい哺乳瓶かな。そろそろミルクの量も増えるし」
「バカ、そういうのじゃないのに…」
梓は、心の中で呟いた。やはり、豊は拳都を生活の中心としているのだ。少し妬けるが、感謝するべきなのだと思い直した。
「重くなったな。ちょっと太りすぎかも」
拳都を抱き上げ、自分の子供のことのようにはしゃぐ豊を見て、彼女の脳裏に上京前の記憶が甦っていた。
一緒に住むようになって二ヶ月近くになるが、豊は梓の過去を知りたがらない。なので、彼女も自分について多くを語らなかった。
梓は富山県出身の19歳。中学を卒業し、美容の専門学校へ進学するため上京した。地元にも学校はあったが、ここに家庭の事情が絡んでくる。
梓の母親は、彼女が10歳の時に他界した。そして、三年後に父親が再婚するが、その後妻と反りが合わなかった。
中学卒業後、梓が独立を決意しても父親は反対しなかった。むしろ、歓迎していたのかもしれない。後妻との間に子供ができたからだ。そんな経緯もあり、彼女は中学を卒業すると単身東京にやって来た。
上京してすぐに、梓はアルバイトを始める。学費と生活費は父親が出してくれたが、卒業後も富山に帰る気はなかったので、そのための貯金が目的だった。ファストフードの店で、学業に差し支えのないよう週三日の勤務としたが、そこで仲良くなった福井出身の女友達に歯車を狂わされた。
都会の暮らしは、田舎から出て来た少女には刺激が強すぎた。梓と同じ北陸出身の女友達は、毎晩のように梓を連れ回した。
驚きと戸惑いの連続だった梓も、次第に神経が麻痺してくる。そうなると、貯金どころの話ではなかった。
東京で遊ぶには金がかかる。気がつけば学校は中退、親とは音信不通となり、水商売にどっぷり浸かるまで、それほど時間はかからなかった。一時期はかなり荒んだ暮らしをしていたが、ある店で出会った舞のおかげで立ち直った。
舞は梓より1歳上で、とかくお節介な女だった。彼女との付き合いは、それから二年以上になる。
拳都の父親である竹内とは、梓が勤めるキャバクラで知り合った。
竹内は洗練された色男で、バンドマンを自称していたが、音楽で飯を食えるほどの甲斐性はなかった。付き合いはじめてすぐに、梓のアパートに転がり込み、気づけばヒモ同然の身となっていた。
そして、梓が子供を宿り臨月に差しかかる頃、何も言わずに彼女のもとを去った。これが彼女の上京後の四年間だ。
梓は、いつの間にか眠っていた豊に布団をかけた。豊は拳都を抱くように眠っている。無性に人恋しくなった彼女も、二人の布団に潜り込んだ。カーテンの隙間から、もう朝陽が射し込む時間だった。