第五章 7
知恵は、自分の涙で濡れた封筒を両手で握りつぶしていた。
「小倉さんが言われたように、私はロクでもない人間なんです。あの子を捨てたのも、付き合っていた男に、俺は子供なんかいらない、産むなら別れると言われたからです。でも、その時には中絶もできない時期だったので、自宅で産んでコインロッカーに捨てました。子供より男を選んだんです。捨てる時だって、ためらいも罪悪感もありませんでした。でも、やっぱり罰は当たるんですね。半年後、その男は別の女性と一緒になり、捨てられた私は独りになりました。それからと言うもの、何をやってもうまくいかず、ただその日を生きている、そんな惰性のような日々を二十年近くも過ごしてきました。あの子を思い出さない日はないとでも言えば、少しは人間的なのかもしれません。でも私は違います。テレビで彼を見るまで、一度だって思い出したことはありません。それどころか、無事に生きているのか、それさえも気にしたことのない最低な親なんです。そんな人間が、今更どんな顔をして会えると思いますか?」
感情を押し殺したような淡々と口調だった。しかし、梓は逆に感情を爆発させ、
「嘘をつかないでください!」
と声を荒げ、知恵をにらんだ。
「嘘…?」
「そうです。あなたは豊君を忘れてなんかいません。そんな薄情な人間が、毛糸を十八年も大切に保管していると思いますか?捨てた子を想う心があるからこそ、あの青い毛糸を今まで持っていたはずです。自分を悪く言って逃げるのはやめてください!」
そう梓が言うと、知恵はテーブルに顔を伏せ号泣してしまった。
その後は、何を言っても知恵は顔を上げなかった。泣きじゃくる肩だけが大きく揺れている。
梓は、小倉に目で合図を送り、
「これを置いていきます。大晦日の東京ドームのチケットです。それと、私の携帯の番号も書いてますので、東京に着いたら連絡ください。飛行機でも新幹線でも、旅費は新聞社が出してくれますし、ホテルも手配しておきます。必ず来てくれると、私は信じてますから」
と言って、チケットの入った封筒をテーブルに置き、立ち上がった。
「小倉さん、帰りましょう」
「いいのか?」
「はい。知恵さんは絶対に来てくれます。悪い人じゃないって信じてたけど、それが間違いなかったから」
「わかった。あの、言いすぎたみたいですみません。でも、本当に待ってますから。あなたの力で、豊を世界チャンピオンにしてあげてください」
小倉は、むせび泣く知恵に謝り、梓とアパートを出た。そして、旅館に戻り宿泊をキャンセルした。
高速道路に入ると粉雪が舞っていた。
「本当に来てくれるかな?」
小倉は半信半疑だった。
「わからないけど、首に縄をつけるわけにもいかないでしょう?」
「そうだな」
「あとは信じるしかないと思います」
「信じるしかないのか。って言うか、さっきの話は本当なのか?」
「コインロッカーのことなら本当です。豊君とはそこで出会いました」
「そうだったのか。どこで知り合ったのか聞いたけど、あいつ教えてくれなかったんだよ。そういうことがあったとはね」
「そうなんです。私もクソみたいな人間になりかけてたんです。でも、知恵さんだって苦しんだと思います。今だってすごく苦しんでいるはずです」
「来てくれるといいが」
「千尋さんには怒られそうです。せっかく見つけたのに、何で連れてこないんだって」
「俺のせいにすればいいさ。実際、俺が怒鳴り散らさずに、最初から梓ちゃんに任せていれば、結果は違ったかもしれないしな」
「いえ、小倉さんが言ってくれなければ、私が追い詰めてたと思います。自分のことを棚に上げて」
車窓を眺めながら、梓は知恵との時間を振り返っていた。小倉に詰問される彼女を見て、自分が責められているような気持ちになっていた。豊と出会わなければ、梓も同じ十字架を背負っていたのだ。
二人が東京に戻ったのは、午後10時を過ぎた頃だった。小倉が、もう一晩拳都を預かってくれると言うので、梓は関東スポーツ社で降ろしてもらい、ビル内にある喫茶店で千尋と合流した。
「お疲れさま。大変だったでしょ?」
「大変だったのは、運転しっぱなしの小倉さんの方で。私は全然です」
「それで来てくれそう?」
千尋にはメールで、およそのことは伝えてある。
「来てくれると信じたいです」
「そうよね。信じるしかないよね」
「豊君には何と?」
「迷ってる。言うべきか、黙ってるべきか」
母親が存在するという事実を知り、会えなくても納得できるだろうか。豊の願いは、あくまで会うことだ。いるとわかったのに会えないとなれば、フラストレーションがたまるのではないか。または、トレーニングそっちのけで岩手に行ってしまうのではないか。
「やっぱり、試合が終わるまで黙っておこうかな…」
「私もそれがいいと思います」
梓も賛成した。あとは31日に、彼女の携帯電話が鳴るのを祈るだけだった。




