第五章 6
仲居に教えられた101号室のチャイムを鳴らすと、ドアの向こうから「どなたですか?」と女の声がした。
「東京から来ました小倉と申します!」
小倉は、必要以上に大きな声で答えた。すると、ゆっくりとドアが開き、警戒心を前面に押し出すように女が顔を覗かせた。
「はじめまして。米崎豊の件でお伺いしたのですが、お話をさせてもらえませんでしょうか?」
小倉は馬鹿正直な態度で出た。それが功を奏したのか、
「あがってください…」
と、知恵は二人に言った。だが、決して歓迎されている様子ではない。明らかに、彼女は迷惑そうな顔をしていた。それでも構わずに、小倉は封筒を渡した。
「単刀直入にお尋ねします。その手紙はあなたが送った物ですね?」
知恵は返事をせず、じっと封筒を見つめた。その困惑した表情に小倉は確信を強め、
「私は、豊が15歳の時から三年間ボクシングのコーチをしていました。初めて会った時、あいつは言いました。親がいなくてもジムに入れますかと。未成年者は親の承諾か必要だからです。聞けば、生まれてすぐコインロッカーに捨てられていたと言うじゃないですか。私は怒りましたよ。そんなクソみたいなヤツは親でも何でもないと。世界チャンピオンになって、見返してやろうぜと」
と、まくし立てるように話した。知恵は、封筒を手にしたまま黙って聞いている。
「でもね… 豊は一度だって、恨みつらみを口にしたことはないんです。あなたもテレビで知ってるでしょう?あいつは、あなたに会いたいためにボクシングを始めたんです。そして、世界チャンピオンまであと一歩のところまで来たんです。どうです?勝たせてあげたいと思いませんか?」
小倉が問いかけると、知恵は蚊の鳴くような声を発した。
「私には… 会わせる顔なんてありません…」
彼女が、豊を捨てた親だと認めた瞬間だった。しかし、殊更驚きもせず、小倉は会話を続行する。
「そりゃそうでしょう。私だってそう思います。けど、豊が会いたいと願っているなら、話は別じゃないでしょうか?応えてあげるべきではありませんか?親の資格がないことはわかってます。けど、今必要なのは資格じゃない、愛情だと私は考えます。このままだと豊は負けます。今までの努力が無駄になったと気落ちして、本来の実力を発揮できずに負けてしまうでしょう。それでもいいんですか?」
「すみません、私にはできません…」
知恵が謝ると、小倉は机に拳を叩きつけ、
「何故できないんだ!あんた、それでも人間か!」
と、額に青筋を浮かべ声を張り上げた。
「小倉さん!落ち着いてください!」
突然激高した小倉を梓が制した。このままだと、知恵はますます萎縮してしまうだろう。
「私の話も聞いてくれますか?」
梓は、知恵に柔らかな口調で問いかけた。うつむいたまま返事はないが、梓は話し始める。
「一年前、私も子供を捨てようとしました。あの新宿駅のコインロッカーです」
知恵が驚いた顔で梓を見る。その目は真っ赤に充血していた。
「でも、できなかった。そこに豊君がいたからです。小倉さんが言う、クソみたいな親になりかけていた私を、豊君が止めてくれたんです。彼はプロデビュー戦が決まったことを報告しに、あのコインロッカーに来ていました。親がいないから、特別な日はここに来ると言ってました。ここが俺の故郷だと。その言葉を聞いて、胸が張り裂けそうになりました。そして、ボクシングに打ち込む豊君の姿を見て、私ももっと真剣に生きようと思いました。まだまだ一人前の大人じゃないし親でもないけど、彼に負けないような人間になろうと、懸命に生きているつもりです。豊君は私の恩人なんです。今日だって、本人に頼まれて来たんじゃありません。彼は、あなたから手紙が届いたことを知らされていないんです」
一呼吸置き、梓は続ける。
「お願いです、一回だけでいいから会って褒めてあげてください。今まで頑張ったねって。そしたら、試合にも勝てると思います。豊君は、それほど欲しくないのかもしれないけど、きっとチャンピオンベルトは最高のご褒美になるはずですから」
梓も泣いていた。とめどなく涙が溢れる。知恵だって、豊を捨てたくて捨てたわけじゃないはずだ。喋りながら、そんな思いが心の中で渦巻いていた。そして、知恵が重い口を開いた。




