第一章 5
「今の試合はどっちが勝ったの?」
舞が聞いた。
「倒れなかった方でしょ?」
そう答える梓も自信はない。
「でも、倒れなかった人の方が、いっぱい殴られてたみたいだけど?」
「いっぱい殴られても、倒れなかったから勝ちなんでしょ?」
「倒れなければいいの?相撲と同じ?」
噛み合わない会話に痺れを切らしたのか、二人の前に座る老人が振り返った。
「ボクシングは、相手を殴り倒して10数えたら勝ちなんだよ」
わかりやすい説明に二人は納得し、ついでに梓はもうひとつ質問をする。
「今の試合が4回戦なのに、どうして次の試合も4回戦なんですか?5回戦じゃないんですか?」
と言って、プログラムを老人に見せ解説を求めた。
「この4とか6という数字は、試合の順番じゃないんだよ。その試合が何ラウンドまで行われるかの数だ。さすがにラウンドくらいはわかるよね?」
「何となく…」
梓は申し訳なさそうに答えた。
「何となくか…」
と、老人が苦笑した時、次の試合を告げるアナウンスが響いた。
花道に現れた豊には、客席を見渡す余裕があった。三割程度の入りだろうか。
「あっ…」
梓の顔が見えた。どことなく不安げな顔をしている。
リングに上がってからも、豊は落ち着き払っていた。
「あれほど待ち焦がれた瞬間なのに…」
と、自分で呆れる始末だ。対戦相手の中村は、すでにリングインしていた。
「いいか、相手はこの試合に負けると出場停止になる。死に物狂いでくるはずだ」
小倉が耳打ちした。中村の戦績は3戦3敗。四連敗すると、四ヶ月の出場停止処分となる。
「それに、お前がデビュー戦ということで、精神的優位に立っているかもしれん。出鼻をくじいて速攻で決めてしまえ」
豊は頷き、生唾を飲んだ。リングアナの妙に甲高いコールが終わり、ゴングが鳴った。
ゴングと同時に中村が仕掛けた。左右のフックにボディと、矢のようにパンチを繰り出す。豊はガードに徹した。
「これがプロのパンチか… 」
ゴング早々のラッシュに戸惑いながらも、
「スピードはそうでもないし、精度も高くなさそうだ…」
と、冷静に相手を分析していた。
豊が萎縮しているように見えたのか、中村は調子づいてリズムよくパンチを撃ちまくる。一分が経過しても、豊は亀のように身を守り続けていた。
「何故撃たん…?」
リング下で小倉が呟いた。
「向こうは大振りだ、隙だらけじゃないか…」
そう思っているのは彼だけではなかった。客席から見ている北原も、同じ感想を持っていた。
「何故撃たないんですかね?」
「撃たないんではない、撃てないんだ。経験不足で縮み上がっているのさ。弱小ジムだから、ロクにスパーリングパートナーもいないんだろう」
得意そうに藤崎は解説したが、北原の見方は異なった。
「違う、撃たないんだ…」
確かに、豊は防戦一方に見える。
「だが、一発ももらってない…」
デビュー戦とは思えないほど、見事なディフェンスを見せているのだ。北原は、更に豊の動きを凝視した。
一方的に攻め込まれる豊を見て、梓は気絶しそうになっている。舞も気が気ではなかった。
「ねえ、殴られっぱなしだけど、豊君大丈夫なの?」
返事をしようとしたが、梓の声は声にならなかった。まるで無抵抗の豊を見て、絶対に勝てるはずがないと思った。だが、北原の分析通り、豊は一発もパンチをもらっていない。
試合開始から二分が経ち、初めて豊が仕掛けた。左のジャブがヒットし、中村がのけ反る。すかさず右フック、そして左ストレートが決まり呆気なくダウンを奪った。
小倉がニヤリと笑う。
「あの野郎…」
そのまま中村は立ち上がれず、豊の勝利が決まった。
勝ち名乗りを受け、豊は小倉と拳を合わせた。
「お前、遊んでただろ?」
リングを下りる豊の背中を、小倉は平手で強く叩いた。
「痛っ、そんなことありません。必死でした」
と笑う豊に、小倉は真顔で言った。
「こんなことできるのも4回戦までだ。そのうち嫌でもボクシングの怖さをわかってくるさ」
「はい…」
返事をした豊の顔からも笑みは消えていた。
リングサイドで梓が待っていた。
「もう、心配したんだから… 怪我はないの?」
今にも泣き出しそうな顔をしている。
「俺は勝ったんだよ。この通り怪我もしてないし」
「でも…」
「ごめん、次の試合が始まるから。またあとでね」
豊は駆け足で控室に戻った。
「ミナシゴ君、かっこいいじゃない!」
梓の横で、舞が豊の背中を追っていた。
控室に戻ると、小倉が開口一番豊に聞く。
「あの娘が例の彼女か?」
「はい」
「なかなか美人じゃないか。どこで見つけてきたんだ?」
グローブの紐を解く荒川が茶化した。そんな和やかな雰囲気の中、
「今日はこれで終わりと言いたいが、せっかくだからメインを見ていくぞ」
と、小倉が豊に告げた。すると、すかさず荒川が文句を言う。
「試合が終わったばかりなんだから、少しは休ませてやれよ。夜は祝勝会もあるんだぞ」
「祝勝会までには帰りますから。豊にとって重要なことなんで」
「まあ、伸一がそう言うなら仕方ないが… そうだ、彼女にも祝勝会に来てもらえ。祝い事は賑やかな方がいい」
そう言うと、荒川は年甲斐もなく、軽やかな足取りで控室を出ていった。
「はしゃぐ気持ちもわかるけどな…」
小倉は苦笑いをした。豊の勝利は、荒川ジムにとって久しぶりの勝利なのだ。しかし、あえて小倉は厳しい言葉を豊にぶつける。
「お前だけは浮かれるなよ。今日は単なる始まりにすぎないんだからな」
勝って兜の緒を締めよ、そういうことを言いたいのだろう。
荒川と入れ違うように北原が現れた。
「どうもお久しぶりです」
小倉が立ち上がって礼をする。北原は彼より三歳年上だった。
「いい試合だったな」
「とんでもない、ちょうど説教していたところで」
「そうか…」
北原は豊を見た。
「デビュー戦だったそうだね?」
「はい」
豊は、バンテージを外す手を止めて答えた。
「今日の作戦はトレーナーの指示かな?」
「えっ?」
「君の実力なら、もっと早くKOできたはずだ。何故、無駄に撃たせ続けたんだ?」
北原は笑顔だったが、目だけは笑っていなかった。豊は、その鋭い視線を逸らして、
「作戦じゃありません。一秒でも長くリングにいたかったというか…」
と答えた。
「小倉君」
北原は小倉をにらんだ。
「駄目だ。この子を大きく育てたいなら、二度とあんな真似をさせるな」
「はい」
北原は再度豊を見て、
「ボクシングをナメるなよ」
と言い残して、足早に去っていった。唖然としている豊に、
「今の最後の言葉、肝に銘じておけ」
と、小倉は苦笑しながら言った。