第四章 13
千尋との約束を守り、如月は豊に何も言わなかったが、やり場のない怒りをスパーリングにぶつけた。
「絶対に勝てよ… そして次は金本だ…」
そう念じながら、一方的に豊を攻め立てた。
「どうした?今日はずいぶん気合が入ってるじゃないか」
「当たり前だろ、試合まであと四日なんだぞ」
「そうだけど…」
豊は異変を感じ取っている。いつもの如月なら、試合が近くなると豊に攻めさせるスパーリングをするのだ。休憩の間も、如月の表情は強張ったままだ。しかし、
「何かあったのか?」
と、豊が聞いても、何もないと答えるだけだった。
「俺は、ボクシングなんて簡単に勝てるものじゃないと思っている。豊は勝ち続けているが、いつかは負ける日も来ると思う。けど、次の試合だけは何がなんでも勝ってほしいんだ。次だけは…」
如月は「次」を強調する。やはり、いつもの彼ではないと豊は確信したが、
「必ず勝つよ」
と言って、如月の肩を抱いた。そして、
「こんなに応援してくれる人がいるんだ。負けるわけにはいかないさ」
と、微笑みながら続けると、如月は無言で涙を流した。
その涙を、豊は見なかったふりをした。自分の台詞に感動して泣いたのではない、きっと何か別の理由があるに違いないと感じたからだ。
「俺が勝つことで、その何かが解決するのなら…」
如月のためにも絶対に勝つと、豊は心を引き締めた。
試合当日、日本武道館。チケットは前売りで完売している。デビューからわずか一年で、豊は一万人を集めるメインイベンターに成長したのだ。更には、地上波の生中継が急遽決定した。先日行われた金本の世界戦が、録画の深夜放映だったことを考えると、より豊人気の凄さがわかるだろう。
普段は北原に文句しか言わない藤崎も、豊への特別扱いを黙認している。これほど多額の利益を生んでくれる選手は、今のFSGにはいないからだ。
そして、豊が今日の試合に勝利すれば、日本のボクシング界に例を見ないビッグイベントが実現する。
「こりゃ、本当に東京ドームでできそうだな?」
「できそうではなく、できるんです」
北原は藤崎に言い切った。彼は、今日も仕掛けを用意していた。テレビ中継のゲスト解説に金本が呼ばれている。その金本に、豊が挑戦者として名乗りを上げるのだ。もちろん豊の勝利が最低条件なのだが、すでに彼はKOにはこだわっていなかった。豊のボクシングを始めた理由を知り、こだわる必要性が薄れている。したがって、この試合に勝利さえすれば、大晦日の東京ドーム興行にゴーサインを出す予定だった。そこまで豊の商品価値は高まっている。
だが、問題もあった。王者の金本が、豊との防衛戦に難色を示しているのだ。
「俺にメリットがないじゃないですか。負ければベルトを失うだけ。勝ったところでブーイングの嵐。そんな試合をするくらいなら、適当な外国人とやって細々と防衛記録を伸ばす方がマシですよ」
まるで駄々をこねる子供のようだが、北原は金本の気持ちが痛いほどわかった。
世界タイトルを獲った金本には、バラ色の人生が待っているはずだった。17戦全勝、しかもすべてKOでの勝利となれば、マスコミが時代のヒーローと持て囃しても何らおかしくはない。だが、そうはならなかった。マスコミやファンの視線は、同じ全戦全勝の豊に向けられてしまった。そして、その片棒を担いでいるのは、他ならぬ北原なのだ。
しかし、北原に他意はない。愛弟子の金本には、一日でも長くチャンピオンでいてほしいと願っているし、豊との試合が決まれば勝たせるための準備をする。しかしながら、ビッグイベント実現に必要なピースは金本ではなかった。残酷な言い方をすれば、金本の代役は作れないことはない。しかし、豊の代わりになる者はいないし、今後現れる保証もないのだ。
今日のゲスト解説の仕事も、テレビ局に頼み込んで使ってもらったのだが、直前になって金本が出たくないと言い出し、北原を慌てさせた。その理由を金本は語らないが、豊の人気ぶりを目の当たりにするのが嫌なのだと想像できた。
なんとか説得して解説席に座らせたはいいが、金本は終始不機嫌な顔で、アナウンサーの問いかけにもロクな返答をしなかった。
「あいつも顔を売るチャンスなんだが…」
と、北原は嘆く。だが、金本を人気者にすることはとっくに諦めている。人気はなくても、ひたすら強くなり歴史に名を残せばいいと思っていた。
「金本さんと同様、デビュー以来KOで勝ち続ける米崎選手ですが、ライバルとしての意識はお持ちでしょうか?」
「いえ、特に…」
「今日の試合で勝った選手が、時期挑戦者になるのではという報道がされていますが、その辺はいかがでしょう?」
「相手が誰であれ、負ける気はしないですね」
「パワーの米崎対スピードのウェブスター、見どころはどの辺りでしょう?」
「試合を見たことがないので何とも言えません」
これは、試合前のアナウンサーと金本のやり取りだが、面白味に欠けると判断したのか、ゴングが鳴ると金本に話を振らなくなった。
試合は戦前の予想通り、ユージーン・ウェブスターが、持ち前の速さで豊を翻弄した。だが、豊も落ち着いており堅実なガードで攻撃をしのぐ。
「ウェブスターのスピードに対応できている…」
それだけでも、すでに豊の実力は世界レベルに達していると北原は考える。ビル・ヘフロン戦と同様、1ラウンドは相手の動きを見極めるのに使っているのだろう。その証拠に、豊は牽制程度のジャブしか放っていない。1ラウンド終了のゴングが響いた。
「どうだ?」
「君の狙いが正しい」
豊は如月に言った。如月の見立て通り、ウェブスターは左サイドのディフェンスに穴があった。
「そこを突けば…」
ただ、スピードは向こうが数段上だった。一発でしとめるには、寸分の誤差も許されない。
「豊ならできるさ」
「そう言ってくれると心強いよ」
と言って笑う豊だが、彼のボクサー人生において、今日ほど緊張した試合は後にも先にもなかった。
「この試合に勝てば…」
彼の夢が実現するからだろう。そのかつてない緊張は、パフォーマンスに少なからず影響を及ぼした。狙い通りに放ったはずのパンチが決まらないのだ。
「隙は見えている…」
なのに当たらない。ウェブスターのスピードに負けているのか。
「違う… 豊に原因があるんだ…」
セコンドの如月も、普段と違う豊を感じていた。
「まずいな…」
無駄撃ちが多いとスタミナを消耗する。第2ラウンド終了後、如月は豊に言った。
「焦らずにポイントを絞っていこう」
「俺、焦ってるのかな?」
豊にそんな自覚はない。
「うん、かなり焦ってるよ。無理に早いラウンドで決めようと考えるな。まだ8ラウンドも残ってるんだ。豊見たさに、こんなにお客さんが来てるんだぞ。一秒でも長く勇姿を見せてあげるのも、プロなんじゃないのかな」
そんな如月の言葉を受け、豊は会場全体を見渡した。
「本当だ… 凄いな…」
自分が当事者とは思えなかった。やはり平常心ではなかったのだろう、武道館という大きな会場で、しかも自分の試合がメインイベントだということすら忘れていたのだ。
「観客を魅了してこそ本物のプロ」
小倉が言っていた言葉を思い出した。来場した観客に満足してもらうのが、メインイベンターの役割ではないか。
「よし…」
吹っ切れた表情になった豊は、第3ラウンドから見違えるような動きを見せた。
「スピードに対抗しても駄目なんだ…」
そう考えた豊は、一撃必殺を狙い防御の比重を下げた。当然被弾は増えるが、何故か彼は心地好かった。広瀬戦もそうだったように、撃ち合いが多い方が会場も盛り上がる。
金本の試合が観客受けしないのは、彼のディフェンス技術が高すぎるせいで、派手な撃ち合いになりにくいからでもあった。豊ら同業者から見れば最高峰のテクニックも、高い入場料を払う観客には、盛り上がりに欠ける攻防としか映らないのだ。
第3ラウンドは、お互い一度ずつのダウンを喫した。判定では、やや豊劣勢かといった内容だった。そして、続く4、5ラウンドも、両者ともに厳しい攻めを見せ、豊の左目は開かないほどに腫れ上がっていた。
「向こうのスピードが落ちているぞ」
「わかってる」
如月のアドバイスに豊は頷いた。彼もこの時を待っていた。そして、殴り合いの最中、彼を苛んでいた緊張が完全に解けていた。ダメージも少なくないが、身体のキレを取り戻すことに成功していたのだ。
「次で決めるよ」
豊は如月に宣言し、それを実行してみせた。




