第四章 12
数日後、如月が荒川ジムに来ると、入口に「臨時休業」の貼り紙があり、建設関係の業者が出入りしていた。
「どうしたんですか?」
「この前話したじゃない、女子用の更衣室とトイレを増築するって」
作業用の黄色いヘルメットを被った千尋が、如月に説明をしながら動き回っている。
「もっと先のことだと思ってましたよ」
確かにそんな話は聞いていたが、先立つ物がないと千尋はこぼしていたのだ。
「銀行から融資を受けたのよ」
「よく貸してくれましたね」
「商店街の代表さんが口添えしてくれたのもあるんだけど、銀行の支店長がボクシングファンで、前から豊を注目してたんだって。せっかくだから、内装も少し綺麗にしようと思ってね」
と、千尋が言うように、内壁を塗装する作業員もいた。
「つくづく思うけど、本当に豊は注目が集まるヤツですね」
「まだまだよ。これからもっとすごいことになるから」
「これ以上有名になったら、友達でいられなくなりますよ」
如月は真顔で答えたが、彼が豊の売名に一役買っているのも事実だった。
豊の知名度が一気に上がったのは、如月戦の勝利後である。更に如月は自身の引退会見で、豊がボクシング界の頂点に立つと予言している。あれから半年も経たないうちに、その予言は現実のものになろうとしていた。
「頂点に立つとは言ったけど、その前に有名になると言った覚えはないんだよな…」
如月は、ただ苦笑いをするしかなかった。
ジムが使えないので、豊は梓と拳都を連れ上野動物園に来ていた。こうして三人で出かけるのは初めてのことだ。
梓の父親絡みの事件も収束に向かいつつあり、刑事が事情聴取に来ることもなくなった。少しずつではあるが、彼女が失踪する前の状態に戻っていた。
「動物園なんて小学校の遠足以来だよ」
豊は少年のような顔をして、動物を見る度にはしゃいでいる。
「でも、拳都にはまだ早かったかな?」
「そうかも」
梓は笑った。動物園に着いてから、拳都は豊の胸でずっと眠っている。ともかく、恋愛経験のない豊には、これが初めてのデートらしきものとなった。
「中学の時、彼女がいなかったのが不思議…」
そう梓が不思議がるように、豊はかなりのイケメンである。それは、今の人気ぶりを見ても疑う余地はない。中学を卒業してから、突然格好良くなったわけでもないらしい。だが、彼は女子と会話をした記憶すらなかった。
「他の子供と違って、お小遣いもなかったからね」
と、豊は過去を振り返る。子供でも付き合いには金がかかるものだ。
「だから、ボクシングを始める前までは、毎日図書館に行って本ばかり読んでたよ」
視力の低下を恐れて、今は読書を控えているが、中学一年の頃までは学校が終わると、まっすぐ区立図書館へ向かっていた。その後、プロボクサーを志してからは、トレーニングに明け暮れる日々を送った。
「その代わり、引退したら思いっきり遊ぶって決めてるんだよね。と言っても、何がしたいとかはないんだけどさ」
そう言ってはにかむ豊を見て、梓の胸はキュンと鳴り思わず手を繋いた。豊も拒まない。
久しぶりに訪れた憩いの一時に、梓はたまらないほどの幸せを実感していた。
園内を一通り巡ると、豊たちはベンチに腰を下ろし昼食をとった。
梓はホットドッグやたこ焼きなど、その場で売っている物で問題ないが、減量をしている豊はそういうわけにはいかない。この日も、持参した鶏胸肉のボイルとゆで卵にかじりついていた。そんな彼の姿に、梓は同情する。
「外に出た時くらい、好きな物食べればいいのに」
と、彼女が言うように、ウエートが気になり始めた豊は、ほぼ毎食同じメニューである。鶏胸肉、ゆで卵の他に、野菜や豆類で腹を満たす。主食と呼ばれる、米やパン、麺類はほとんど口にしない。
「如月が考えてくれたメニューだからね。文句なんか言えないよ」
如月の友情に、豊は幾度となく胸を熱くさせられていた。受験勉強やジムでの指導の合間を縫って、如月は豊のために栄養学の書物を読み漁っているのだ。
「本当の友達なんだね」
「うん。唯一無二って感じかな」
「私には、舞がそんな感じだな。舞と出会ってなかったら、堕ちる所まで堕ちてたと自分でも思ってる。数えきれないほど助けてもらってるんだよね」
腕の中で眠る拳都の頭を撫で、梓がじみじみと言うと、
「俺だって同じだよ。如月がいなかったら、ボクシングを続けてこれなかった」
仮に続けていたとしても、荒川ジムを離れていたに違いない。豊にとって如月は、友達以上の存在となっていた。
試合の一週間前になると、如月は豊につきっきりとなる。この日もそうだった。激しいスパーリングを何本もこなし、北原から借りたDVDで試合の対策を練る。今度の相手は世界3位の実力者、暫定ながら世界ベルトも巻いたことのあるユージーン・ウェブスターである。
「速いな」
現役を退いた今でも、豊に引けを取らないスピードを保つ如月が唸る。
「北原さんも言ってた。スピードだけなら、フェザー級で世界一じゃないかって」
「速いだけじゃなく、パワーもありそうだな」
「何と言っても世界3位だからね…」
二人は繰り返しDVDを再生し、つけ入る隙を探した。
「やや左サイドが甘いかな。ほら、左フックを撃ったあとなんか特に。その辺りに突破口があるかもしれない」
対戦相手の研究をしている時、改めて如月は天才だと豊は思う。身体能力だけではなく、ボクシングIQもずば抜けて高いのだ。
「明日の夜、FSGで動作解析システムを使わせてもらうんだけど、君も来てくれないか?」
以前にも利用した3Dの映像で、相手の癖などを見抜くというものだ。如月が一緒だと心強い。
「もちろん行くよ」
「ありがとう、助かるよ」
「礼はいいよ。豊を勝たせるのが、俺の使命なんだから」
如月は、照れくさそうに笑顔を見せた。
二人がDVDに夢中になる中、千尋が先に帰ると言う。
「戸締まりよろしくね」
「今日は居酒屋休みですよね?一緒に帰りましょうよ。俺たちもそろそろなんで」
如月が呼び止めたが、
「ごめん、これから友達と会うのよ」
と言って、千尋は立ち止まりもせず出て行った。
「なんか嘘臭いよな。彼氏でもできたかな?」
如月が豊に聞いた。
「どうなんだろう?」
「迎えに来てるかもよ」
如月は窓越しに外を見た。すると、千尋がちょうど車に乗り込むところだった。
「ほら、やっぱり…」
と言いかけて、言葉が止まった。
「どうした?」
「いや、何でもない。違う人だったわ…」
何事もなかったように、如月はテレビ画面に目をやった。豊も触れてこないので、それ以上千尋の話題にはならなかった。だが、如月は先程見た光景が頭から離れられずにいた。千尋が乗り込んだ車の運転席に、金本がいたからだった。
「聞いてる?」
「えっ!?」
如月は慌てた。豊が何か言っていたようだ。
「大丈夫?疲れてるんじゃないのか?」
「いや、大丈夫だよ。頭の中で敵の動きをイメージしてたんだ」
「それならいいけど…」
豊は心配になった。今、如月に倒れられでもしたら困るのだ。
「今日はもう帰ろう。ラーメンでも食べに行かない?」
「いいね!」
如月は笑顔で答える。だが、心の中は千尋と金本のことで一杯だった。二人は交際しているのか。そうだとしても、豊はその事実を知らないだろう。それとも、知っていてとぼけているのか。
「いや…」
そんな器用な真似が、豊にできるとは思えない。おそらく、千尋が秘密にしているのだ。だとしたら、ジムまで迎えに来るのは浅はかではないか。
「やっぱり変だよ。何か言いたいことでもあるんじゃないか?」
ラーメン屋に入ってからも様子のおかしい如月に、豊は業を煮やした。
「千尋さん、最近変わったことないか?」
如月も我慢ができなくなった。
「千尋さん?」
反射的に、先日の涙が思い浮かんだが、それは口にしない。
「ほら、この前の世界戦だって、嘘をついて行かなかったじゃないか」
「うん…」
「きっと何かあるんだよ」
「うん…」
何かあるのはわかっている。だが、千尋は待ってくれと言った。だから、豊は待ちたいと思っている。しかし、如月は待てなかった。次の日、金本の件を千尋に問いただしたのだ。
豊がロードワークに出ると、ジムに如月と千尋が二人になった。
「聞きたいことがあるんですが…」
「何よ、改まって?」
いつもと違う雰囲気の如月に、千尋が首を傾げた。
「金本さんのことです。昨夜見たんです。迎えに来てるトコを」
「あ、あれは…」
千尋が慌てふためくが、
「いえ、別に弁解なんか聞きたくないんです。ただ、どんな気持ちでそんなことしてるのかなと思って」
と、あえて如月はトーンを変えずに聞いた。
「豊は知ってるの?」
「言ってません」
「だったら今晩話す。もうすぐ優夏ちゃんも来ちゃうでしょ?」
練習後、二人は隣町のバーで会った。
「よく来るんですか?」
静かなムードの店内を見回しながら、如月が千尋に尋ねた。
「初めて。誰にも聞かれたくない話だから」
「深刻な話なんですか?」
「最初に約束してほしいんだけど、このことは絶対豊に言わないでほしいの。私のためじゃなく豊のために。約束してくれる?」
そう念を押してから、千尋は風俗で働いていたこと、そこで金本と出会ったことを赤裸々に打ち明けた。
「それで、あいつが千尋さんに惚れちゃったわけですね」
「違うと思う。豊が注目を浴びて面白くないのよ。だから、豊と一緒にいる私に復讐してるんじゃないかな」
「そんな… それで千尋さんが犠牲になるなんて、そんなの許せないですよ」
「そう思うでしょ?豊だって同じように考えるはず。だから絶対に知られたくないの」
豊が知れば、金本への挑戦を放棄するに違いない。ボクシングをやめるとまで言い出す可能性すらあった。
「私が拒絶したら、金本は豊と戦わないと言ってる。たかが私ごときのことで、豊の大きなチャンスを潰したくないの。本当は如月君にだって言いたくなかったけど、試合が近いのにトレーニングに集中できなかったら困るし」
如月は何も言えず、酒を一気に飲んだ。そして、
「私がバカだったんだよ…」
と言って、涙を流す千尋の手を握りしめた。
「千尋さん、俺許せないです。こんなに頑張り屋の千尋さんを泣かすなんて、絶対に許せるわけがない…」
如月の目から、正義感という名の涙が流れ出る。しかし、千尋が豊のために耐えると言っている以上、彼に何をしてあげられるのか。
「ありがとう。でも、その気持ちだけで十分」
そう言って、千尋は如月の頬にキスをした。
「千尋さん…」
「君はいいヤツだね」
目に涙をためながら、千尋は精一杯の笑顔を作った。




