第四章 11
金本の初防衛戦。豊は如月、優夏と最前列の席で観戦した。当初は千尋が来る予定だったが、急遽居酒屋の仕事が入ってしまい、代わりに優夏を誘ったのだ。
第五試合終了後、豊はリング上に呼ばれて挨拶をした。来月に行われる試合のプロモーションの為だった。
「世界ランク3位の強敵が相手ですが、KOで決めてみせます」
豊が堂々とKO勝ちを宣言すると、会場から怒号のような歓声が起こった。控室でその歓声を耳にした北原は、満足そうに頷いていた。と言うのも、彼はその興行で大きな賭けに出たからだ。
豊の試合をメインに、日本武道館に打って出るのである。後楽園ホールを満員にできる集客力は証明済みだが、武道館のキャパはその五倍以上ある。はたして、豊に一万人以上集めるタレント性があるのか、大晦日に予定している東京ドーム興行へ向けての試金石でもあった。
今日の会場でも五千人程度のキャパシティ、つまり豊を世界戦以上に客を呼べるボクサーと、北原は判断したのだ。
金本は、フィリピンの挑戦者を危なげなくKOで下し、客席に向かって雄叫びを上げた。
「あれ、やめた方がいいと思うんだけどな」
如月が笑うと、
「私もそう思います」
と、優夏も頷く。
「ゴリラの求愛ダンスにしか見えません」
現役女子高生の目からも、金本のパフォーマンスはいただけないらしい。
会場からの帰り、
「千尋さんの店に寄らない?」
という如月の案で、千尋が働く居酒屋に行ったが、どういうわけか出勤していなかった。
「仕事になったからって言ってたんだよな?」
「そうだけど…」
豊も不思議でしかない。
「具合が悪いんでしょうか?心配かけないように、仕事だって嘘をついたとか?」
優夏の推理に、二人は納得の表情をした。千尋ならありえる話だ。
「俺帰るから、優夏ちゃんを頼むよ」
如月たちと別れ、豊は急いで帰った。しかし、千尋はマンションにもいなかった。
午前2時、赤坂にあるシティホテルの一室に千尋はいた。一糸まとわぬ姿の彼女は、ベッドの上で金本の愛撫を受け止めている。
「相変わらず反応のない女だな。恥ずかしがらずに声を出せよ」
金本は荒い呼吸で、千尋の身体を貪っていた。しかし、彼女は眉ひとつ動かさずに、時が経つのをひたすら待ち続けていた。
「豊が、この男に挑戦するまでの我慢…」
そう思いながら、恥辱と屈辱に耐えている。
「まあ、どこまで意地を張っていられるか見ものだな。今日は朝まで寝かせないからよ」
その言葉通り、千尋にとって拷問のような時間は明け方まで続き、彼女が帰宅したのは午前8時を過ぎた頃だった。
「えっ!?」
いないはずの豊がいて、千尋は狼狽した。
「どうしたの?トレーニングは?バイトは?」
「どうしたのじゃないよ!千尋さんこそどうしたの?」
「言ったじゃない、欠員が出たから仕事に…」
「お店に行ったんだよ。試合終わったあとに如月たちと」
「えっ!?」
想定外の展開に、千尋の表情が硬直する。
「別に嘘をつかなくてもいいと思うけど。たとえ言えない用事があったにしても。俺だけじゃなくて、如月たちだって心配してるんだから」
豊に責める気はなかった。いつも一生懸命な彼女が、どこで何をしようと文句を言う権利もない。だが、その心中に反して、彼の言葉は鋭くなっていた。千尋は顔を伏せ何も答えない。
「ごめん、文句を言うつもりじゃなかったんだけど。ただ心配してただけで」
「わかってる、悪いのは私だから…」
うつむいたまま千尋は泣いていた。大粒の涙がフローリングの床を濡らす。
「千尋さん…」
「ごめんね…」
やはり、いつもの千尋ではないと豊は思った。
「困ってることでもあるの?俺にできることがあるなら…」
「違うの、これは私個人の問題だから。時期が来たら話すから、今はそっとしといてほしい」
「わかった。でも、本当にどうしようもなくなった時は言ってよね。俺、千尋さんが悩んでる姿見たくないから」
千尋は何かで困っている。でも、その何かはわからない。だが、それが自分に関係しているのではないか、何故か豊はそう思えてならなかった。
関東スポーツの渋谷が、写真集の完成品を持ってきた。
〝米崎豊ファースト写真集/触れられぬ秘密…〟
なかなか意味深なタイトルだ。千尋の考案だという。
「彼女の原稿が評判良くてね。構成にも参加してもらったんだよ」
「そうなんですか」
豊は笑顔になった。千尋が褒められることは、自分が褒められる以上に嬉しかった。写真集をパラパラとめくると、思っていたより服を着ている写真が多い。
「なんだか照れ臭いですね。本当に売れるんですか?」
実物を見ても、豊はまだ半信半疑だった。値段は千円だというが、それが高いのか安いのかさえ、彼にはわからない。
「予約だけで、結構な数字になってるからね。明後日のサイン会も、かなりの人が集まると思うよ」
発売記念イベントとして、新宿の書店でサイン会がある。もちろん、これも初めての経験である。写真集をめくる豊の手が止まった。千尋が書いた文章だ。
ー デビューして、わずか一年で世界ランキング入り。人は彼を強運の持ち主だと思うだろう。実際、彼を見ていると、運が引き寄せられているような気がしてならない。そして、引き寄せた運に彼は結果で反応する。すると、また次の運が彼に吸い寄せられる。いったい、このシナジー作用はいつまで続くのだろうか。
彼の強さには、触れられぬ秘密がある。その秘密が明かされる時、彼は時代の頂点に立っているに違いない。 ー
「編集部でも話題になっててね。米崎君の秘密は何なのかって。でも、もったいぶって教えてくれないんだ。それは写真集の第二弾で明かしましょうと。文才があるだけじゃなく、商売も上手だよ」
「第二弾…?」
まだ最初のも発売されていないのにと、豊は辟易するしかない。
「売上が良ければ、当然第二弾も出さないと。でも、その前に来月の試合に勝つ方が先だね」
「はい」
豊は力強く頷いた。試合に勝つ、それが彼の本業なのだ。
サイン会が開かれる商業ビルに着くなり、豊は自分の目を疑った。
「すごい行列なんだけど…?」
ざっと百人は並んでいるだろう。それもほとんどが若い女である。何か別の催し物でもやっているのかと思っていると、行列の中の一人が豊に気づき、悲鳴のような声を上げた。それが呼び水となり、皆が一斉にカメラや携帯電話を豊に向けた。
「ここでの撮影は禁止です!」
警備員が大声で叫び、豊たちが逃げるようにビルの中に入ると、
「裏口からお願いしますって言ったじゃないですか」
と、出版社の社員に小言を言われてしまった。早々にケチがついたが、その後は特にトラブルもなく、最終的に二百人以上の購買者に豊はサインをした。武道館のチケットも販売され、こちらも予想を大きく上回る売れ行きを見せた。
「みんな、アイドルを見るような目をしてたね。先頭のコなんか、昨夜から並んでたみたいよ。こんなに寒いのに」
帰り道、千尋がサイン会を振り返った。男子も数人いたが、圧倒的に女性が多く、そのほとんどが学生と思われる年代だった。
「豊はボクシングをやらなくても、アイドルになれたんじゃないかなって気がする」
「俺はアイドルになりたいわけじゃないから」
「でも、プロボクサーにだって、なりたくてなったんじゃないでしょ?」
「それは…」
千尋が正しい。豊にとって、ボクシングは目的を達するための手段にすぎなかった。もし、他に有効な手段があれば、ボクシングには見向きもしなかっただろう。
「達成したらどうするの?ボクシングはやめちゃう?」
千尋が聞いた。彼女は、その日がそれほど遠くないことを知っている。
「いや、何も考えてなくて…」
それは、今の正直な気持ちだった。手段とは言え、全身全霊を捧げてきたことに違いはなく、ボクシングへの愛情や愛着も育まれている。
「とにかく、今は来月の試合でKO勝ちすることしか頭にないから」
写真集、サイン会と本業以外のイベントが続いたが、すでに豊は試合に向け戦闘モードに切り替わっていた。




